ジュンガル帝国と清による侵略

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最盛期のジュンガル帝国

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 ジュンガルとは西モンゴル族のオイラトの一部族であり、彼らが建てた国家の本拠地はジュンガル盆地とイリ渓谷であった。ジュンガル帝国は「最後の遊牧帝国」と呼ばれ、この帝国を最後として、圧倒的な力を誇示していた遊牧騎馬民族は、歴史の表舞台から退くことになる。
 ジュンガル帝国3代目ハンのガルダン・ハンのときに、帝国はその支配域を大いに広げた。彼はチベット仏教の活仏(高僧の生まれ変わり)と認定され、幼少期をダライ・ラマ5世の下で過ごしていた。しかし彼の兄である2代目ハンが殺された時に還俗して仇を討ち、ジュンガルのハンとなった。さらにオイラト内の有力者を倒して全オイラトの支配権を握った。ダライ・ラマ5世はガルダンを強く支持し、最高位のテンジンボショクト・ハン号を与えた。ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げた。その後東モンゴル族のハルハ部をも破ったが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになった。
 ガルダン・ハンはタリム盆地を制圧した時に、ヤルカンド・ハン国の君主を退位させ、黒山党のホジャとともにイリに拉致した。そのかわりに傍系であるアブドゥッラシードを傀儡のハンに立てて、白山党ホジャに実権を握らせた。このようにしてタリム盆地オアシス諸都市は、ジュンガル帝国に服属することとなった。
 モグーリスタン・ハン家は1697年に断絶し、白山党ホジャにハン位が移った。ハン位がチンギス・ハンの子孫から、マホメットの末裔へと移ったのである。このような、宗教的権威が世俗的権力を併せ持つ状態を、イスラム帝国以来他に例の無い「イスラム神聖国家」とする見方もある。

 清による「西域」の本格的経営は1716年の敦煌、ハミ、バリクルに屯田を開いた時から始まる。ジュンガル帝国と一進一退の攻防を繰り返した後、乾隆帝が1755年にジュンガル帝国を滅ぼした。この時ジュンガルの武将アムルサナの協力があった。しかしアムルサナは、協力の見返りとして期待していた、ジュンガルのハンの継承が許されなかったことから、清朝へ反旗をひるがえすことになった。
 清はこれを裏切りととらえ、ジュンガルは到底「徳化」することのできない野蛮人であると見なし、1757年ジュンガル掃滅の目的に大部隊を発進させた。このときに清軍が持ち込んだ天然痘と相まってジュンガルは壊滅した。
 タリム盆地では兄弟のホジャ(大小ホジャ)が清朝に対抗した。ジュンガルを制圧した清は1759年この地域も制圧した。大小ホジャはバダクシャン(現在のアフガニスタン北部)に逃亡したが、そこで捕えられ殺された。またその親族は全て北京へ移住させられた。 こうしてジュンガル盆地(準部)とタリムイスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部を併せて「新疆」(新しい辺境の領土)と名づけた。

 なおジュンガルが滅んで権力の空白が生まれたジュンガル盆地に、かつて部族内の内乱を避けてロシア領に移住していたオイラトの一部族トルグート(現地ではカルムイクとよばれる)が大挙して帰還してきた。清朝は帰順してきたトルグートを受け入れ、東トルキスタン北部での遊牧を許可した。彼らの子孫は現在でも東トルキスタンに住んでいるが、ジュンガルなどのオイラトや東モンゴル族などを含めて他のモンゴル系諸集団とひとまとめに「蒙古族」として扱われている。

 清朝の支配の仕方は、将軍や大臣の下に各都市の首長をウイグル人が務め、比較的自治に近いものであった。これはチベットでも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、蔵回部の民族を味方にするための優遇措置であったと考えられる。このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われる。


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