モンゴル帝国からヤルカンド汗国まで

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モグーリスタン・ハン国~ヤルカンド・ハン国

モンゴル帝国からヤルカンド汗国まで bookmark

 西遼と西夏の滅亡とともにウイグル族はモンゴル帝国に服属することとなった。ウイグル人を含む西域の人びとは色目人と称され、蒙古人に次ぐ地位を与えられた。ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、モンゴルの頭脳となっていった。またチャガタイ・ハン国の時代には、世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せていった。

 モンゴル帝国はその後分裂することになるが、東西トルキスタンを含んだ地域はチャガタイ・ハン国が後継した。チャガタイ・ハン国の主に西部の人々は、モンゴル系遊牧民が都市定住化し、言語的にはテュルク化、イスラム教の受容が進み、自らをチャガタイと名乗るようになった。これに対し東部の草原地帯の人々は、純粋な遊牧生活を営み、モンゴルの伝統的な生活を続け、自らをモグール(モンゴル)と名乗った。このような東西の分裂傾向と混乱とを経て、1340年チャガタイ・ハン国はパミール高原を境として東西に分裂した。
 東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のハンであるトゥグルク・ティムールは東トルキスタンを統一し、1360年には一時的ではあるがチャガタイ・ハン国を再統一した。しかし西チャガタイ・ハン国でティムールが離反し、これに敗れその下に服属することになった。
 ティムールはチンギス・ハンの築き上げた世界帝国を理想としていたと言われ、トルキスタンから外に向けて遠征を繰り返し、強勢な大帝国、ティムール朝を築き上げた。
 東トルキスタンのモグーリスタン・ハン国はティムール朝に服属しながらも天山南路東半部に勢力を維持し続けた。尚、この時にタリム盆地全域のイスラム化が完成した。

 1500年、テュルク系遊牧集団ウズベク族が北方から進入してきたため、ティムール朝が滅亡した。これと同時期の東トルキスタンでは、テュルク系遊牧集団、カザフ族とキルギス族との圧力により、モグーリスタン・ハン国の支配地域は次第に南下していった。さらにマンスールの治世には天山北路より北はほとんど放棄され、ここはカザフ族とキルギス族が遊牧する地域となった。またマンスールの弟サイードが1514年にカシュガルを占拠し、ヤルカンド・ハン国(カシュガル汗国)を建てた。この後ヤルカンド・ハン国がタリム盆地全域を支配し、1679年までその支配は続いた。
 このようにして、モグールの支配者層もまた、定住化、テュルク化、イスラム化していった。尚このときの、天山山脈を挟んで北は遊牧、南は定住という民族分布は、現在にも引き継がれている。

 タリム盆地を支配していたヤルカンド・ハン国の名目上の君主は、チャガタイの正裔であるモグーリスタン・ハン家であったが、実際には諸都市の実権はホジャ(和卓)と呼ばれるイスラム宗教貴族が握っていた。ホジャとはもともとは西トルキスタンのイスラム神秘主義教団の職名であり、マホメットの子孫(のうちの庶流)を自称する人々である。彼らは東トルキスタンに移動してきた後、「神の光」の所有をめぐって、ヤルカンドを本拠とする黒山党(イスハーキーヤ)とカシュガルの白山党(アーファーキーヤ)とで対立を起こしていた。


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