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東トルキスタン旅行記 bookmark

 
 現在私はホームページなどを通して、日本人にも東トルキスタン問題をもっと知ってもらおうと活動しているところである。 しかし、現地を知らぬまま書籍等を通して得た知識だけで文章を書いていたということもあり、自分の活動に対して多少の引け目を感じている所であった。 時間と金が許せば是非ともと願っていたところ、折りよく都合がつき現地へ行くことができたので、ここで少しながらの報告をさせて頂きたいと思う。
 私が訪れた場所は、ウルムチ、トゥルファン、カシュガル、アルトゥシュなど、パックツアーでよく行かれる、ごくオーソドックスな観光地を歩いてきた。
 
 ウルムチは現在の自治区の首府となっているが、歴史は浅く見所も少ない。博物館で新疆ウイグル自治区の歴史と、遺跡から出土した遺物や楼蘭の美女などのミイラを見、それから現在の新疆に住む「少数民族」の原寸大の人形を使った生活の様子などを見てきた。その後、国際大バザールで少々の買い物をした。広い敷地内に多数の常設店舗が並んでおり、観光客が来るような良い場所は漢人が、現地の人々が生活に使っている値段も現地向けとなっている場所はウイグル人が集まって店舗を開いていた。
 
 トゥルファンでは交河故城高昌故城トヨク溝千仏洞トヨク溝ホジャム・マザールを見てきた。シルクロードといえば仏教東漸であり、玄奘や法顕など唐僧が歩いた地である。ここトゥルファンはクチャと並んで仏教遺跡が多く残る地であり、日本人観光客が特に好んで行くところである。ということで日本人観光客を大勢見たが、他の地域から旅行に来たというウイグル人観光客も結構多かった。彼らは自分たちの偉大な先祖の残した文化を見に来たのだという。東トルキスタンに住むテュルク系の人々はほとんど全員がスンニー派のイスラム教徒であるから、偶像崇拝の要素が大きい仏教美術は忌避されがちかと勝手に想像していたので少々おどろいた。宗教的な厳正さよりも、自分たちの民族のルーツを重要だと思う人も多いということであろうか。
 そういえば、イスラム教徒は仏画の顔を削り取り、近代になってからは西欧や日本の探検隊が絵画を剥ぎ取るなどしてきたが、それよりも徹底的に破壊したのは文革のときの紅衛兵であったな、などと以前聞いた話を思い出す。
 高昌古城については、漢人による屯田、あるいはここに残った漢人が建てたものだというのが定説になっているが、実はこれはウイグル人が建てたものなのだと主張するウイグル人もいた。それ以外の古城も仏教遺跡もほとんどがウイグル人が建てたものであり、以前は学校でも教えられていたウイグル人の常識なのだそうだ。
 ウイグル人がこの地に来たのは西暦840年以降であり、現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国が滅び、その亡命者が西進し現在の東トルキスタン東部に定住し、建てられたのが西ウイグル王国であるというのが歴史的常識である。よってトゥルファンに残される、西暦840年以前の古城や仏教遺跡を建てたのはコーカソイドか漢人であり、テュルク系の民族であってもウイグル人は有り得ないだろう。
 しかしウイグル人の中には紀元前からここにウイグル人が定住していたのだと主張する人がいる。現在中国で発禁処分になっている、トゥルグン・アルマスの書いた「ウイグル人(ウイグルの歴史)」という本がある。これによると、楼蘭遺跡から発見されたミイラ「楼蘭の美女」は、炭素同位体年代測定の結果6千年ほど前のものであり、ウイグル人なのだそうだ。そのころからこの地にはウイグル人が住んでいたということである。ウイグル人の先祖が太古まで遡ることができると主張をする人達は、トゥルグンの歴史観から影響を受けているのであろうか。発禁処分になるくらいに危険な名前なので、直に質問することはできなかった。
 確かに現在のウイグル人は、もともとこの地に定住していたコーカソイドに、匈奴や鮮卑、突厥、ウイグルなどのモンゴル・テュルク系民族が混血してできた民族であるので、東トルキスタンに住んでいた人々はすべてウイグル人の祖先であると言う意味で、このような主張になるのかもしれない。
 中国政府の同化政策真っ只中にあるウイグル人にとって、自分たちのルーツがずっと古代にまで遡ることができる、というのは魅力的なものなのだろう。
 
 カシュガルについたときは日曜日で、ちょうど有名な日曜バザールの日であった。近隣の町や村から大勢の人が集まり所狭しと物が売られていた。時間が許せば一日かけて買い物を楽しみたいところであったが、見ておきたい場所がたくさんあったので、ほとんど素通りで雰囲気を味わっただけで終わってしまった。カシュガル市内ではエイティガール・モスク、アパク・ホージャ・マザール、ユスフ・ハス・ハジープ・マザールに行ってきた。
 エイティガール・モスクは東トルキスタン最大のモスクであり、モスクの目の前には広場があり、両脇には職人街や飲食店などが並び、生活の場と信仰の場とが混然となった興味深い場所であった。礼拝の時間を見ることができず残念であったが、どの時間帯であっても広場には多くの人がおり、ここが彼らの生活の中心にあるということが良くわかった。しかし近年、ここも開発の波が押し寄せ、巨大な建築物が広場を取り囲むように並び、エイティガール・モスクの壮麗さが損なわれてしまったとのことである。
 アパク・ホージャ・マザールは街中から少々離れたところに位置する、綺麗なマザール(聖者墓)である。ここは清朝に嫁いだイパルハン(香妃)が眠る場所として漢人にも有名であり、彼らはここを香妃墓と呼ぶ。ホージャとは、イスラム教神秘主義(スーフィズム)の一派ナクシュバンディー教団の職名であり、もともとは西トルキスタンにいたムハンマドの子孫(しかし、サイイドよりも更に庶流であるという)とのことである。彼らは東トルキスタンに来てから白山党(アーファーキーヤ)、黒山党(イスハーキーヤ)と2つに分かれて大戦争をしたということである。戦況不利な白山党のアパク・ホージャはチベットに一時避難したそうだが、最終的には彼ら白山党が勝利をおさめ、カシュガルを本拠地としてタリム盆地を支配した。もっとも名目上の支配者はモンゴル系のモグーリスタン・ハン国やジュンガル帝国であったが、実権は彼らカシュガル・ホージャが握っていたといわれている。綺麗なマザールとは裏腹に、アパク・ホージャはカシュガルの人々からはかなりの悪評を買っているようだ。大勢の人間を殺した、大量の書物を焼いた、今頃は地獄で責苦を受けているに違いないなど、いかに極悪人であるかを力説する人もいた。
 ユスフ・ハス・ハジープはクタドゥク・ビリク(幸福の知恵)という書を書いた人物で、カラハン朝時代のウイグル人であり、偉大な著作家として民族の誇りとなっている。カラハン朝とは西ウイグル王国と同時代にできた王朝であり、西暦840年に滅びた遊牧ウイグル帝国からの亡命者らが建てた国だと言われている。 ユスフ・ハス・ハジープ・マザールは人民公園の端に位置しており、ここから緑の公園が続き、小さい遊園地のようなものが置かれた人民広場に出て、毛沢東の巨大な像へとつながる。もともとのマザールはここから少し離れた川岸にあったそうだが、近年この地に移されたとのことである。
 ユスフ・ハス・ハジープと並ぶ有名な著作家であるマフムード・カシュガリーのマザールはカシュガル市内から少々離れたオパル村にあった。彼はセルジューク朝の都バクダードでテュルク諸語の辞典「テュルク語大辞典」を書き上げ、死後この地に葬られたとのことである。この辞典には世界地図が書かれ、最上部には「ジャバルカ」の文字があり、これが日本のことだと言われている。
 
 カシュガルの隣町アトゥシュには、サトク・ボグラ・ハン・マザールを見る為に行って来た。彼はカラハン朝の3代目の王であり、東トルキスタンで初めてイスラム教に改宗した王として有名である。マザールに隣接したモスクも立派なところであった。
 私がウイグル人の友人に、ウイグル人にとって重要な人物は、この地のイスラム教徒のルーツであるサトク・ボグラ・ハーンではないかと聞いたところ、それはその通りだが、ムーサー・バヨフなどのジャディードたちも重要な人物なのだとの答えが返ってきた。
 アトゥシュは、20世紀初頭にウイグル人に対して近代的な教育を施した知識人や、それを支えたスポンサーが多数輩出された場所である。ちなみにアトゥシュの住人は商売上手であるとして有名であり、金持ちが多いそうである。
 それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式(ウスリ・ジャディード)の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになった。当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力を払った人々がジャディードである。有名なスポンサーとしてはムーサー・バヨフ家、教育者としてはアブドゥルカーディルらがおり、いずれもアトゥシュ出身者である。 彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになった。ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいる。
 今回の旅行で訪れることができたのは、ムーサーバヨフ兄弟が建てた最初の学校と、メムタリ・アペンディのマザールだけであった。ムーサーバヨフ兄弟が建てた学校は記念として残されていたが、現在使われているのはその隣にある新しい校舎であった。そこにムーサーバヨフ兄弟の像が立っていた。メムタリは現地の人に教えられて初めて知った人物であった。彼の教育していた時期がちょうどジャディードの最盛期に当たるそうである。
 もっとたくさんの場所を訪れたかったのだが、場所が分からない所が多く残念であった。次回の課題にしたい。ウイグル人の近代化に尽くしたジャディード達の熱い思いを感じ取りたいと思う。
 
 以上、訪れた場所についての感じたところを述べた。次に、現地の人々が現状に対していかに不満を持っているかを簡単にまとめ、それに自分なりの分析も少々加えたいと思う。 とは言っても、直接に怒り混じりに不満を言う人はごく少数であり、事実を淡々と述べる言葉の中に不満が滲み出てくるということが多かった。独立を主張せずとも、現実に起きている問題を言うだけで政治犯に仕立てられる、彼らの置かれている厳しい現状を表しているのではないだろうか。もちろん私が彼らに十分信用されるようになれば、もっと激しい口調で深い話をしてくれるようになるのだろうけれども。
 

  1. 内地から多数の漢人が移住してきている。そのため少数民族は大学を卒業してもなかなか就職先がみつからない。また少数民族が大学に入ろうとすると、大学教育に入る前に1~2年程度の漢語トレーニングの期間が必要である。
     自分の子供を漢族の学校に入れているようなウイグル人でさえ、「漢人はあらゆるところにいますから、新疆の代表はウイグル人だけど、共産党の書記は漢人なんですよ。」と漏らしていた。私が「そうですね。そして実際の実力者は共産党書記のほうですよね。」と言ったところ、彼はニヤリと笑い、それ以上は何も言わなくなった。
     
  2. 街中でも農村であっても、とにかく「計画生育」に関連したスローガンが目立つ。子供を少なく産み、平和で繁栄した生活を送ろう、という主張である。とあるウイグル人に、「日本では子供を2~3人産むことに問題はないのか?」と聞かれたが、産児制限を政策的に強制している国は中国くらいのものだと答えた。
     少数民族に対しての産児制限は、漢族に対するよりも後から開始され、またより多くの子供を産んでよいという優遇措置がある。しかし、東トルキスタンという地域に限って見るならば、この優遇措置など相殺する勢いで内地から大量の漢人が移住してくるのであるから、東トルキスタンの同化政策は着々と進行しているといえるのではないか。
     
  3. 新疆のテレビ放送は60以上のチャンネルがあるが、ウイグル語放送など少数民族言語の放送はごく少ない。カシュガルの場合は3,8,9,10チャンネルの4チャンネルのみがウイグル語放送となっている。それぞれの地区で放送局が異なり、他地域の番組は見られないようになっている。たとえばカシュガルの人はウルムチやトルファンの放送局の番組を見ることができない。しかし中国語放送であれば、西安の番組でさえ見ることができる。
    これは、ある地域で事件や暴動が起きたときに、他地域がそれを知って連動しないように、各地域の情報を孤立させているのだと考えられる。
     
  4. 自分たちの足元にある石油はすべて中国内地に運ばれている。そして自分たちが使う石油は国外から輸入されたものである。そのためガソリンなどの価格は、内地よりも高くなっている。
    失業者が多く生活レベルが低いウイグル人にとって、自分たちの足元にある資源が自分たちの生活に役立っていない不満は大きいと思われる。
     
  5. 少数民族の海外への出国が制限されるようになった。以前のように相手国からの招待状だけで出国できたのとは状況が変わってしまった。
     例えば日本からの招待状であれば有効期間は3ヶ月であるが、締め切りが迫っているにも関わらず役所はまともに対応せず、きちんとした説明もないままだらだらと時間を稼ぎ、結局日本に行くことができない、といったことが多発している。子供を出産するために一時帰国した人も、その新しく生まれた子供にパスポートが発行されなかったため、結局母親と子供とは新疆に残らざるを得なくなったというケースもあったそうだ。その人は「子供が両親と一緒に移動するのは当たり前のことでしょう!」と訴えたが、担当者にはまともに取り合ってもらえなかったようである。
     
  6. 宗教活動に関して、日に5回の礼拝も、金曜の礼拝も、断食もしていないという人が結構多いようである。宗教的に寛容で、世俗化が進んでいるということもあるだろうが、現地のウイグル人は「そもそも中国政府が宗教活動を邪魔するから・・・」と言葉を濁していた。その人本人にも少々の後ろめたさがあるのであろう。

 
 今回の旅行で、ビデオカメラを構えて歩き回ったときに、怪訝な顔をされることがしばしばあった。大方のウイグル人から見れば、私の外見は漢人と同じなので、この表情は漢人に対して向けられたものなのか、生活を物珍しそうに撮影している失礼な人間に対してのものなのか、どちらなのかは分からなかった。いずれにしても、漢人と間違えられて取り囲まれるのではないかという恐れがあり、細い路地や田舎町を一人で歩く勇気はなかった。

 ウイグル人は親日的であると言われる通り、自分が日本人であると明かすと対応が変わるということもあるにはあったが、想像していたほどの「豹変」というものは体験できなかった。 そこで、自分と同年代のウイグル人に、好きな外国がどこかを聞いてみたが、日本とドイツが真っ先に挙がった。両国はハイテクの国というイメージがあるようで、実際に街中を走っている車は日本車とドイツ車が多かったように思う。「アメリカはどうか、アメリカこそハイテクな国だろう。」と聞くと、「ああアメリカも好きかな。」という程度に好きな国のようだ。住んでいる地域や年代によって好きな国、親近感を抱く国は違うようで、田舎に住む人や年配者からは中東や中央アジア、都市部の若い人からは日本とドイツがあがるようである。
 中国政府は抗日教育を盛んに行っているが、ウイグル人はこの影響をさ程受けていないようである。もちろんものすごい田舎にいけば、日本人はとても怖い人種であると素直に信じている人もいるとのことである。
 また、今回の旅行では、都市部でも農村部でも比較的裕福な地域しか見ることができなかったが、それでも日本に比べると生活レベルは圧倒的に低いことがわかった。子供は学校に通えず、食べていくだけで精一杯という人もまだまだ多いと聞く。次に行くときには、平均以下の人々の暮らしを見、話を聞いてきたいと思う。
 
 次回の東トルキスタン旅行はいつになるのか、果たして次回があるのかも分からないが、自分自身の活動については確信を持つことができた。暑くて乾燥した空気、砂漠とオアシスの国、素朴で実直でお客をもてなすことが大好きな陽気な人々、支援しようとしている相手が現実のものとして実感できるようになった。
 ここは中国とは異なった、独自の歴史と独自の文化を育んできた地域である。中国は中華文明・文化だけを良いものであるとし、彼らを自身に同化しようとしているが、許しがたい暴挙である。
 東トルキスタンに平和と自由が訪れることを願ってやまない。

 
*この旅行記は、殿岡事務所の「中国民族問題研究」に掲載されたものに、一部加筆したものである。


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