民族工作の推移

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民族工作の推移 bookmark

建国当初の民族工作 bookmark

 1911年の辛亥革命によって清朝が崩解すると、諸地域の民族は独立を望んだ。しかし中華民国の臨時大総統となった孫文は、民族の団結を訴え「五族共和」を謳った。漢・満・蒙・回(ウイグル)・蔵(チベット)の諸地を合わせて一国とし、諸民族をあわせて一人とする、というものである。これは新しい国家は各民族が平等に共同で作り上げるという意味も込められたものであったが、同時に民族の分離・独立の否定をも意味していた。

 そしてこの五族共和は、抗日戦争期にはナショナリズムを高揚させる必要性から、蒋介石の「中華大民族論」へと変わっていった。漢民族以外の諸民族は中華民族の支族・宗族であり、「中国5000年の歴史は、各宗族共通の運命の記録に他ならない。この共通の記録は各民族が融合して中華民族となり、中華民族が共同防衛してその生存をはかり、中国悠久の歴史を作りあげている。」とされた。この理論に基づいて辺境の積極的経営が行なわれた。

 中国共産党は、1930年代の中華ソビエトの時期には少数民族の自決権を認め、連邦制の国家を志向していた。しかし抗日戦争・国共内戦を経て、実際に国内の統一が進み、自らが権力を握るようになると、民族自決権・分離権は全く否定され、区域自治政策へと転換されていった。

 中華人民共和国が建国されてすぐのころは、民族問題の扱いについて細心の注意が払われ、「民族工作」の基本原則として以下のように定められた。

 ・各民族は平等である。
 ・民族に対する差別や圧迫、民族の団結を破壊する行為を禁止する。
 ・民族の言語・文字を使用し発展し、風俗習慣を保持し改革する自由を持つ。
 ・少数民族が集住するところでは区域自治を実行する。

 しかしこれらの権利は認められたものの、「中華人民共和国の不可分の一部」であるということははっきりしていた。

 民族区域自治政策の第一段階として、「民族識別工作」という民族の区分作業が行われた。漢族を含めて民族数はもともと5族であったが、建国当初は10民族になり、その後39民族、55民族、56民族と増えていった。しかし、独自の文化と言語、歴史をもったウイグル族やチベット族などと、人口数千人に過ぎず固有の言語も文字も持たないような、後付で定義された民族とが同一のレベルにされるなど、区分の基準はかなり曖昧なものであった。
 自治区の画定については、単一民族の自治区域を避けて漢族を入れた区域にし、単一民族の自治区域の場合はなるべく狭く、というような判断の元に行なわれた。
 本来であれば、少数民族の自治を行わせるためには、その区域での少数民族の割合を高めるべきである。このように民族識別工作はかなり政治的な意図の下に進められたものであることがわかる。
 以上のように、1950年代前半の「民族工作」は、多分に問題はあったものの、それ以前の政権よりは辺境の住民を引きつけることに成功し、民族の融和をある程度実現した。

激しい弾圧:大躍進期・文化大革命期における民族工作 bookmark

 しかし、続く大躍進期と文化大革命期には「民族工作」自体が無くなり、急進的な民族政策がとられ、激しい弾圧が行なわれるようになっていった。大躍進期には経済的な統合が、文革期にはイデオロギーの統合(漢民族への同化)が進められ、民族政策は骨抜きになり、民族地区は経済・文化的に疲弊しきることになった。

 1957年に毛沢東は反右派闘争と称して、反体制派の粛清を行った。この粛清が民族地区に於いては「民族主義」との闘いという形で繰り広げられることになった。「民族問題はつまるところ階級の問題だ」というこの時期の理論は、民族に関する問題が全て階級問題に転嫁され、少数民族への自治権や優遇策など不用であるという認識へとつながって行った。「反地方民族主義」キャンペーンが展開され、特に東トルキスタンにおいて激しく行なわれた。
 ついで農工業の大増産政策である「大躍進政策」の下、民族地区の経済的な統合が進められた。(ちなみにこの大躍進政策は大失敗で、中国全土の餓死者数が2000万から5000万人出たと諸説ある。)
 東トルキスタンに於ける経済的統合のために重要な役割を果たしたのが「生産建設兵団」である。併合時に駐屯した人民解放軍退役軍人と、「革命戦士」として中央から募った中学卒業生で部隊を編成したという。その構成人員のほとんど全員が漢族である。「農業・牧畜・林業・副業・漁業の生産大軍」として、巨大な経済力と軍事力を背景に、地下資源を強奪し、また東トルキスタンの全耕地のうち半分を管轄下に収められた。
 そして宗教に対しての締め付けも始まった。婚姻や教育などに関わること、寺院などが生産手段をもつこと、信者による奉仕活動や献金などの「搾取」、国家の行う生産活動を妨げるような宗教活動、大衆への宗教の強要、信徒への宗教的処罰、などが「宗教的特権」であるとして禁止された。この宗教政策は基本的に今日まで続いている。

 毛沢東は大躍進政策の失敗によって実質的な権力を失ったが、その後も中央の権力闘争は続き、林彪と四人組は毛沢東が失った権力を取り戻すための「文化大革命」を引起こした。指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、事業家などの資本家層が、さらに学者、医者、などの知識人等が弾圧の対象となった。多くの人材や文化財などが被害を受け、中国全土における死亡者、行方不明者の数は数百万人とも数千万人とも言われる。
 1959-62年の中印紛争、60年からの中ソ対立などの辺境での安全保障ということもあり、他の分野に先んじて民族問題での文化大革命が始まった。とくにソ連やモンゴルと接した辺境は、軍事、イデオロギーの闘いの最前線と位置づけられた。
 民族自治区域の優遇政策や、言語文化政策などの「民族工作」自体が無くなり、民族幹部は冤罪などで迫害を受け漢人の支配が強められた。
 この時期に「民族工作」がなくなったということは、1975年憲法から民族政策の条文が消えたことに象徴される。それまでの少数民族の区域自治、特定民族に対する差別と迫害の禁止、諸民族の風俗習慣の保持と改革の自由、地方財政や民族言語の公用語化などの自治権などがなくなった。
 またソ連の「修正主義」との対決ということもあり、極端なマルクス主義に基づいて、宗教が徹底的に否定された。教会や寺院・宗教的な文化財が破壊され、聖職者や僧侶が投獄・殺害されたりした。
 これらすさまじい弾圧は、毛沢東の死と林彪と四人組の失脚によって文革が終了するまで続いた。

改革解放、エスノ・ナショナリズムの高まり bookmark

 弾圧と粛清の嵐であった文革が終り、鄧小平と共産党主席の胡耀邦の下で改革解放政策と、「民族工作」の復活が成された。民族政策は基本的には50年代の、大躍進・文革期以前に戻るものであった。
 文革期には実質禁止されていた宗教活動が復活し、さまざまな宗教組織がよみがえった。またイデオロギーの衰退と経済発展に伴う即物的な社会風潮の蔓延する一方で、それに対抗して精神的拠り所を宗教に求める人びとも増えた。
 東トルキスタンにおいても同様にイスラム教の復興が起き、特に産児制限に対しては宗教的な理由から強い反発が生じている。また文革期に閉鎖されていたモスクや学校が復活すると、漢族学校に通う学生が激減し、政府に大きなショックを与えたようである。

 1984年には「民族区域自治法」が制定された。基本的には建国当初の1950年代の民族政策を踏襲するものであるが、これに資源開発の優先権などの配慮が加えられたものになった。しかしこのような枠組みは作られたものの、市場経済の発展によって、結局は中央政府と漢族とが資源開発を独占する状態に変化は生じなかった。

 1980年代後半から世界的にエスノ・ナショナリズムの高まりによる民族問題が表面化してきた。中国も同様であり、特にソ連の崩壊と中央アジア諸国の独立、モンゴルのナショナリズム高揚と民主化の動きなどが、中国国内の少数民族を刺激した。
 エスノ・ナショナリズムが国境を越えた拡がりを見せ、また少数民族への政策が人権問題として国際社会で認識されるようになったこともあり、東トルキスタン、内モンゴルなどの民族会議が中国国外で開かれるようになった。

 1992年にトルコのイスタンブールで第一回「東トルキスタン民族会議」が開かれ、このときに以下の宣言文が採択された。

 (1)われわれの祖国は東トルキスタンである。
 (2)国旗と国章について。
 (3)中国の植民地主義政策、共産主義政策、「東トルキスタン中国の不可分の一部」という主張と同化政策を拒否する。
 (4)独立によってのみ自由と幸福が得られる。
 (5)内モンゴル・チベットと連携する。
 (6)国際連合、人権組織、イスラム組織などが中国に圧力をかけるよう求める。

 2004年4月にドイツのミュンヘンで、東トルキスタン民族会議と世界ウイグル青年会議とが合併し、世界ウイグル会議が誕生した。これは、それまで世界各国にある東トルキスタン組織を、運動を組織的、統一的に行うために結成されたもので、現在49の団体が参加している。初代主席はエイサ・ユスフ・アルプテキンの息子エリキン・アルプテキン、2006年からは2代目主席としてラビア・カディールが選出された。独立を前面に出さずに、「民主的且つ平和的な手段を利用し、ウイグル族の民主、自由、そして、人権及び東トルキスタン国民の独立の政治的前途の獲得を目的としており、そのために奮闘」している。
 2004年9月には、東トルキスタン亡命政府がアメリカのワシントンで樹立された。11月には憲法を発効し、亡命政権としての正当性を主張している。なお、亡命政府は世界ウイグル会議とは個別に活動を行っている。
 
 また1980年代後半からは、民族紛争や衝突が毎年のように起きている。特にチベット、東トルキスタンで頻発するようになった。

 以下東トルキスタンで起きた事件についてのみ取り上げる。
 1990年4月にアクト県バリン郷で起きた農民の武装蜂起は、直接の原因はモスク建設をめぐるトラブルと産児制限への反発であったと言われる。人民解放軍はこの暴動を鎮圧するために空軍を使った空爆まで行ったと言われ、多くの犠牲者を出した。アムネスティ・インターナショナルによると、死者は50人、6000人が反革命罪で訴追されたという。
 95年7月にはホータンで、96年4月~5月にはカシュガルとクチャで同様に、宗教的な理由が原因で衝突が起きている。
 97年2月5日にはイニン(グルジャ)で最大規模の衝突が起き、多くの犠牲者が出た。平和的なデモで始まったが、治安部隊によってその場で100人以上が殺された。続く数週間で数千人がデモに参加した容疑で拘束され、数百人が処刑されたとのことである。

東トルキスタンの現状 bookmark

 エスノ・ナショナリズムの高まりや、民族・宗教問題によって起こる紛争に対して、中国政府はこれらを「民族分裂主義」「分離主義」であると断罪している。そしてこれらへの対処として「中華民族論」による愛国主義キャンペーンや、民族分裂主義者への厳罰化、宗教活動の厳しいコントロール、重点経済開発などが行なわれている。本来なら通常犯罪に対して用いられるべき「厳打」キャンペーンが、「民族分裂主義者」への弾圧を正当化する理由として用いられている。
 宗教動と活動場所、団体の管理・監視なども再び強化されるようになった。またイスラム聖職者の試験制度、共産党員の宗教信仰の禁止、司法・教育・産児制限・文化娯楽活動に対しての宗教が関ることの禁止なども決められた。これら宗教政策は今日まで続いている。
 1982年公布の憲法や、84年の「民族自治法」などに謳われる民族の平等や自治権、文化や言語の尊重なども、結局は死文化することになった。
 学校教育について、大学ではウイグル語による授業がなくなり、現在では中学や小学まで中国語による授業が行なわれている。
 また重点経済開発という名目で資源を強奪し、大量の漢族の移住が奨励されている。このような形で民族の文化や言語を奪い、漢族への同化政策が進められている。漢族が東トルキスタンの人口に占める割合は、1949年の建国当初には6%に過ぎなかったのが、現在では40%程度まで上がっていることがこれを物語っている。
 2001年9月11日以降は、中国は東トルキスタンで行なっている行き過ぎた厳しい取締りや、国外の東トルキスタン組織のテロ組織認定など、「テロリストとの闘い」の一環であると位置付けようとした。アメリカの世論や、実際に一部ウイグル人がアフガニスタンの紛争に加わっていたことによって、この試みは成功した。

 以上のように、時代とともに民族工作は強弱を変えてきた。しかし、結局は少数民族が圧倒的多数である支配者:漢族に融合させられていくプロセスをなぞっているに過ぎない。

 そして東トルキスタンでは、ウイグル人をはじめとした少数民族の自由と人権を求める者は、

 1950年~60年代は 「反動分子」「民族主義者」 
 1970年~80年代は 「反革命主義者」   
 1990年代は「民族分裂主義者」「分離主義者」 
 そして2001年以降は「テロリスト」   

 とレッテルを貼られ弾圧され続けてきたのである。


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