2009年7月5日ウルムチ事件

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2009年7月5日ウルムチ事件 bookmark

事件のあらまし bookmark

 2009年7月5日、東トルキスタンのウルムチで起きた事件は、学生らを主体とする平和的なデモから始まった。
 6月26日に広東省の玩具工場で起きたウイグル人襲撃事件の解決を願い、犯人を逮捕するよう要求するために、デモが行われた。中国国旗を掲げてデモをするなど、反政府的な意図が無いことを示すことによって、政府はこの要求を聞いてくれるものと期待して行われた。デモ隊は次第に人を増やし、1万人の規模になったという。

 しかし現地の政府はこの平和的なデモ隊に対して、千人を超える武装警察を投入し、無差別な発砲により数百人を射殺し、さらに数人を装甲車でひき殺すなど、激しい弾圧を行った。事件の日以降、多くの逮捕者と行方不明者が出ており、監獄や刑務所に入れられている。

 ウルムチ事件の原因ともなった、6月の広東省の襲撃事件で殺されたウイグル人達であるが、彼らは、経済的な理由による出稼ぎ労働者などではない。
 2003年より中国政府は、ウイグル人の若者数十万人を、中国の沿岸部の工場などへ強制的に移送しているのである。
 貧しい農村部の若者に仕事を斡旋するとの名目であるが、実態は安価な労働力として奴隷のように酷使されている。さらに女性であれば売春を強要されることもある。
 これが貧しい農村部の若者への救済措置ではないことは、各地域で「出稼ぎ」に出るよう若者の数がノルマとして割り振られていることと、それを拒否したために逮捕された者が大勢いることからも分かる。

 6月26日の広東省で起きた事件は、解雇された漢人が嘘の情報を流し、扇動された漢人がウイグル人を襲ったということである。多数のウイグル人が犠牲になった。

民族同化政策 bookmark

 そもそもウイグル人の貧困を、地元での雇用によらずに、沿岸地域に移送させることによって解消しようとするのは何故なのだろうか。中国の支配下に入ってから、東トルキスタンには大量の漢人が入ってきている。60年前の総人口に占める漢人の割合は6%に過ぎなかったのが、現在ではほぼ半数を占めるまでに至っている。地元の要職は漢人によって占められ、ウイグル人は大学を卒業しても地元では仕事が出来ないのが現状である。漢人の大量移住とウイグル人の若者の大量移出は、東トルキスタンの同化を目的として行われているとしか考えられない。東トルキスタンの中ですら、文字通りの少数民族になろうとしている

 また民族の根幹を成す言語や文化、信仰などへの制限も益々強化されている。公教育からのウイグル語の追放は大学から始まり現在では幼稚園から中国語教育が行われている。
 児童や学生は宗教活動への参加を禁止され、大学の寮などでは日々の祈りを行っていないかを教師が見回っている。
 カシュガル旧市街の町並みなど、民族の歴史的な文化も破壊されている。民族の歴史や文化に関する出版活動も中国政府の意に沿うように制限されている。
 地域住民の集まりなども政府の管理下に置かれている。宗教的・地域的つながりを失った若者たちはモラルを失い、さらにさまざまな抑圧や経済的な差別により、ドラッグに溺れてエイズに罹るなど深刻な社会問題を生んでいる。
 また、さまよえる湖として有名なロプノールでは、住民が住んでいるすぐそばで核実験が何度も行われており、 数十万人規模の放射能による犠牲者を出している。
 このような政府の残酷な政策に異議を唱える者は、「分離主義者」、「テロリスト」などとレッテルを貼られ、まともな手続きも経ずに監獄や強制労働所に送られている。

事件以後の東トルキスタンは bookmark

 デモが鎮圧された後、中国政府はウイグル人の暴動によって漢人が多数被害にあったと、ことさらに強調し、民族対立を煽った。
 その結果7月7日には漢人による報復行動が起こった。報道された写真に写る漢人らは鉄パイプや手斧を持っているが、彼らは「デモ参加者」であると報道されている。これら漢人の暴徒は道を歩くウイグル人を襲い、ウイグル人の商店を襲撃し、モスクに放火した。しかし、当局はウイグル人に対してしたような激しい鎮圧は行っておらず、「民族」毎に違った対応をしている。
 中国政府の公式発表では192人の死者となっているが、実際には武装警察や漢人の報復行為によって数千人のウイグル人犠牲者が出ているとみられている。また、今でも多くのウイグル人が逮捕され、監獄に閉じ込められ、拷問を受け、死に至っている。

 中国当局は、ウルムチの「暴動」が外部の勢力からの指示によって計画されたと喧伝しているが、これにはまったく根拠がない。
 2008年のチベットの事件のときとは異なり、中国政府は情報を公開する方針に変えたというが、それは中国政府の公式の情報を発信するということであり、現地に入った外国のメディアは移動の制限を受けていた。
 事件以降、東トルキスタンでは外部との連絡が取れなくなるよう、数カ月に渡り、電話回線やインターネットなどが使えなくなるなど、厳しい情報の遮断が為された。


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