東トルキスタンに自由と平和を


3.モンゴル帝国からヤルカンド・ハン国まで
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 1500年、テュルク系遊牧集団ウズベク族が北方から進入してきたため、ティムール朝が滅亡した。これと同時期の東トルキスタンでは、テュルク系遊牧集団、カザフ族とキルギス族との圧力により、モグーリスタン・ハン国の支配地域は次第に南下していった。さらにマンスールの治世には天山北路より北はほとんど放棄され、ここはカザフ族とキルギス族が遊牧する地域となった。またマンスールの弟サイードが1514年にカシュガルを占拠し、ヤルカンド・ハン国(カシュガル汗国)を建てた。この後ヤルカンド・ハン国がタリム盆地全域を支配し、1679年までその支配は続いた。
 このようにして、モグールの支配者層もまた、定住化、テュルク化、イスラム化していった。尚このときの、天山山脈を挟んで北は遊牧、南は定住という民族分布は、現在にも引き継がれている。

 タリム盆地を支配していたヤルカンド・ハン国の名目上の君主は、チャガタイの正裔であるモグーリスタン・ハン家であったが、実際には諸都市の実権はホジャ(和卓)と呼ばれるイスラム宗教貴族が握っていた。ホジャとはもともとは西トルキスタンのイスラム神秘主義教団の職名であり、マホメットの子孫(のうちの庶流)を自称する人々である。彼らは東トルキスタンに移動してきた後、「神の光」の所有をめぐって、ヤルカンドを本拠とする黒山党(イスハーキーヤ)とカシュガルの白山党(アーファーキーヤ)とで対立を起こしていた。


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