東トルキスタンに自由と平和を


民族工作の推移
(2/4)


>>TitleMenu
>>次へ(3/4)
<<前へ(1/4)

激しい弾圧
大躍進期・文化大革命期における民族工作


 しかし、続く大躍進期と文化大革命期には「民族工作」自体が無くなり、急進的な民族政策がとられ、激しい弾圧が行なわれるようになっていった。大躍進期には経済的な統合が、文革期にはイデオロギーの統合(漢民族への同化)が進められ、民族政策は骨抜きになり、民族地区は経済・文化的に疲弊しきることになった。

 1957年に毛沢東は反右派闘争と称して、反体制派の粛清を行った。この粛清が民族地区に於いては「民族主義」との闘いという形で繰り広げられることになった。「民族問題はつまるところ階級の問題だ」というこの時期の理論は、民族に関する問題が全て階級問題に転嫁され、少数民族への自治権や優遇策など不用であるという認識へとつながって行った。「反地方民族主義」キャンペーンが展開され、特に東トルキスタンにおいて激しく行なわれた。
 ついで農工業の大増産政策である「大躍進政策」の下、民族地区の経済的な統合が進められた。(ちなみにこの大躍進政策は大失敗で、中国全土の餓死者数が2000万から5000万人出たと諸説ある。)
 東トルキスタンに於ける経済的統合のために重要な役割を果たしたのが「生産建設兵団」である。併合時に駐屯した人民解放軍退役軍人と、「革命戦士」として中央から募った中学卒業生で部隊を編成したという。その構成人員のほとんど全員が漢族である。「農業・牧畜・林業・副業・漁業の生産大軍」として、巨大な経済力と軍事力を背景に、地下資源を強奪し、また東トルキスタンの全耕地のうち半分を管轄下に収められた。
 そして宗教に対しての締め付けも始まった。婚姻や教育などに関わること、寺院などが生産手段をもつこと、信者による奉仕活動や献金などの「搾取」、国家の行う生産活動を妨げるような宗教活動、大衆への宗教の強要、信徒への宗教的処罰、などが「宗教的特権」であるとして禁止された。この宗教政策は基本的に今日まで続いている。

 毛沢東は大躍進政策の失敗によって実質的な権力を失ったが、その後も中央の権力闘争は続き、林彪と四人組は毛沢東が失った権力を取り戻すための「文化大革命」を引起こした。指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、事業家などの資本家層が、さらに学者、医者、などの知識人等が弾圧の対象となった。多くの人材や文化財などが被害を受け、中国全土における死亡者、行方不明者の数は数百万人とも数千万人とも言われる。
 1959-62年の中印紛争、60年からの中ソ対立などの辺境での安全保障ということもあり、他の分野に先んじて民族問題での文化大革命が始まった。とくにソ連やモンゴルと接した辺境は、軍事、イデオロギーの闘いの最前線と位置づけられた。
 民族自治区域の優遇政策や、言語文化政策などの「民族工作」自体が無くなり、民族幹部は冤罪などで迫害を受け漢人の支配が強められた。
 この時期に「民族工作」がなくなったということは、1975年憲法から民族政策の条文が消えたことに象徴される。それまでの少数民族の区域自治、特定民族に対する差別と迫害の禁止、諸民族の風俗習慣の保持と改革の自由、地方財政や民族言語の公用語化などの自治権などがなくなった。
 またソ連の「修正主義」との対決ということもあり、極端なマルクス主義に基づいて、宗教が徹底的に否定された。教会や寺院・宗教的な文化財が破壊され、聖職者や僧侶が投獄・殺害されたりした。
 これらすさまじい弾圧は、毛沢東の死と林彪と四人組の失脚によって文革が終了するまで続いた。

>>次へ(3/4)
>>TitleMenu
<<前へ(1/4)