東トルキスタンに自由と平和を


3.モンゴル帝国からヤルカンド・ハン国まで
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 西遼と西夏の滅亡とともにウイグル族はモンゴル帝国に服属することとなった。ウイグル人を含む西域の人びとは色目人と称され、蒙古人に次ぐ地位を与えられた。ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、モンゴルの頭脳となっていった。またチャガタイ・ハン国の時代には、世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せていった。

 モンゴル帝国はその後分裂することになるが、東西トルキスタンを含んだ地域はチャガタイ・ハン国が後継した。チャガタイ・ハン国の主に西部の人々は、モンゴル系遊牧民が都市定住化し、言語的にはテュルク化、イスラム教の受容が進み、自らをチャガタイと名乗るようになった。これに対し東部の草原地帯の人々は、純粋な遊牧生活を営み、モンゴルの伝統的な生活を続け、自らをモグール(モンゴル)と名乗った。このような東西の分裂傾向と混乱とを経て、1340年チャガタイ・ハン国はパミール高原を境として東西に分裂した。
 東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のハンであるトゥグルク・ティムールは東トルキスタンを統一し、1360年には一時的ではあるがチャガタイ・ハン国を再統一した。しかし西チャガタイ・ハン国でティムールが離反し、これに敗れその下に服属することになった。
 ティムールはチンギス・ハンの築き上げた世界帝国を理想としていたと言われ、トルキスタンから外に向けて遠征を繰り返し、強勢な大帝国、ティムール朝を築き上げた。
 東トルキスタンのモグーリスタン・ハン国はティムール朝に服属しながらも天山南路東半部に勢力を維持し続けた。尚、この時にタリム盆地全域のイスラム化が完成した。

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