東トルキスタンに自由と平和を


4.ジュンガル帝国と清による侵略
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 清による西域の本格的経営は1716年の敦煌、ハミ、バリクルに屯田を開いた時から始まる。ジュンガル帝国と一進一退の攻防を繰り返した後、乾隆帝が1755年にジュンガル帝国を滅ぼした。この時ジュンガルの武将アムルサナの協力があった。しかしアムルサナは、協力の見返りとして期待していた、ジュンガルのハンの継承が許されなかったことから、清朝へ反旗をひるがえすことになった。
 清はこれを裏切りととらえ、ジュンガルは到底”徳化”することのできない野蛮人であると見なし、1757年ジュンガル掃滅の目的に大部隊を発進させた。このときに清軍が持ち込んだ天然痘と相まってジュンガルは壊滅した。
 タリム盆地では兄弟のホジャ(大小ホジャ)が清朝に対抗した。ジュンガルを制圧した清は1759年この地域も制圧した。大小ホジャはバダクシャン(現在のアフガニスタン北部)に逃亡したが、そこで捕えられ殺された。またその親族は全て北京へ移住させられた。

 こうしてジュンガル盆地(準部)とタリムイスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部を併せて「新疆」(新しい辺境の領土)と名づけた。

 清朝の支配の仕方は、将軍や大臣の下に各都市の首長をウイグル人が務め、比較的自治に近いものであった。これはチベットでも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、蔵回部の民族を味方にするための優遇措置であったと考えられる。このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われる。

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