東トルキスタンに自由と平和を


6.2つの東トルキスタン共和国
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 新疆の親ソ連化は金樹仁のときから進んでいたが、これは中央政府からの援助が見込めないことから仕方なく起こったことであった。当初、盛世才も親ソ連であったが、1941年の独ソ開戦により反ソ・反共に向かい、国民党の傘下に入ることとなった。しかし盛世才の民族弾圧の激化によって、ウイグル人とカザフ人の幹部はソ連へと脱出し、そこで軍事訓練を受けた。彼らが後の独立運動で大きな働きをすることとなった。
 1944年8月、盛世才はクーデターを起こしたが、これが蒋介石の怒りを買い、新疆省政府の主席から更迭されることになった。
 ソ連の影響力が失せ、主席が左遷されるこの混乱時に、「民族解放組織」がイリ地区ニリカを占拠、11月12日にはイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立が宣言された。主席はエリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていた。ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握した(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。
 しかし1945年8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と国民党との密約で、外蒙古の独立、満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配することが了解された。
 東トルキスタン政府は、当初は完全な独立を主張していたが、1945年秋には高度な自治の獲得へとその目標が後退し、さらにソ連の仲介によって、1946年1月ウルムチの国民党政府と和平協定を締結する至った。6月にはお互いの閣僚を出し合って新疆省連合政府が成立し、東トルキスタン共和国は解消されることになった。しかしこの連合政府もまもなく分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り、「保衛新疆和平民主同盟」を組織し、自治を宣言した。
 1949年国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定した。8月に北京で開催される会議に参加するため、政治的指導者達は出発したが、その途上ソ連に連れ去られ殺害された。しかし近年まで彼らの死は、飛行機事故によるものとされていた。
 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」された。そして1955年、新疆省は新疆ウイグル自治区となり、現在に至っている。

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