| 歯医者の看板に注目。 | | 昔ながらの町並み。近年開発が進み、徐々にこのような場所も消えつつある。 |
町並み1 カシュガル | 町並み2 カシュガル |
| 東トルキスタンで最大規模のモスク。イスラム暦846年(西暦1422年)に創建。正門の高さは12m、左右の尖塔(ミナレット)は18m。 | | 普段このモスクでは3、4千人がお祈りをし、金曜には1万5000人~2万人が集う。ローズ祭やクルバン祭では6万人~10万人にも達する。 |
エイティガール・モスク1 カシュガル | エイティガール・モスク2 カシュガル |
| エイティガール・モスクの内部。中心となる礼拝堂は総面積2600平方メートルにもなり、4200人が同時に礼拝を行うことができる。 | | メロンとスイカを売っている。その背後には、購入した人であろうかスイカを食べている姿が見える。メロンはハミ瓜の名で知られているが、実際にはカシュガルなど南西部産のものが広く流通している。 |
エイティガール・モスク3 カシュガル | 日曜バザール1 カシュガル |
| 肉を吊り下げて切り売りしている。この食肉市場のすぐ目の前にはヒツジやヤギなどの家畜市場がある。 | | ウイグルの伝統的な楽器が並ぶ。 |
日曜バザール2 カシュガル | 職人街の楽器屋 カシュガル |
| 人民広場にある巨大な毛沢東像 | | 毛沢東像からユスフ・ハス・ハジープ・マザールの間は人民広場と自然公園とになっている。ポプラの並木が涼をさそう。 |
毛沢東像 カシュガル | 人民広場 カシュガル |
| カラハン朝の時代にテュルク語による「クタドグ・ビリク(幸福になるための知恵)」を書いた人物の墓。この時代以前の文章はもっぱらペルシャ語に拠っていたが、テュルク語で高い芸術性のある書物が書かれたということで画期的であった。 | | ユスフ・ハス・ハジブは1085年に死亡し、カシュガル郊外に埋葬された。後に河川の氾濫を避けるため、現在の位置に移された。 |
ユスフ・ハス・ハジープ・マザール カシュガル | ユスフ・ハス・ハジープの肖像 カシュガル |
| モグーリスタン・ハン国~ジュンガル・ハン国のときに、タリム盆地を実質的に支配していた、イスラム宗教貴族「白山党」系一族の墓。アパク・ホージャはその白山党系の名祖。ホージャとは、西トルキスタンのイスラム神秘主義教団(スーフィー)の一派ナクシュバンディー教団の教職名である。彼らはムハンマドの子孫であるサイイドの一支族にあたると言われている。 | | アパク・ホージャ・マザールは、東トルキスタンでも特に有名なマザールである。創建は1670年で、後に度々修復拡張され、1874年には中央アジア式イスラム陵墓となり、モスクなどが新たに建築された。美しいマザールであるが、アパク・ホージャ自身は地元の人からの評判がすこぶる悪い。 |
アパク・ホジャ・マザール1 カシュガル | アパク・ホジャ・マザール2 カシュガル |
| マフムード・カシュガリーの像。彼はセルジューク朝の首都バグダートにおいてアラビア語で「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」を書き上げた。 | | |
マフムード・カシュガリーの像 カシュガル・オパル | 伝説の木 カシュガル・オパル |
| マフムード・カシュガリーは老後カシュガルに戻り、死後は生地であるこの地に埋葬されたという。 | | テュルク語大辞典は、テュルク諸語の分類、歴史や文学、人種、民俗、社会などが書かれており、項目数は7500を越える。世界地図の最上部には「ジャバルカ」と書かれており、これが日本のことだと言われている。 |
マフムード・カシュガリー・マザール カシュガル・オパル | トルコ語大辞典の世界地図 カシュガル・オパル |
| スルタン・マザールとも言われる。サトク・ボグラ・ハンは、カラハン朝の3代目の王であり、東トルキスタンで初めてイスラム教に改宗した王として有名である。彼が没したのは西暦955年であるが、彼の息子の治世に20万張(天幕)のテュルク人がいっせいにイスラム教に改宗したという。 | | アルトゥシュの人々は商売上手であるとして有名である。さらに、多くの知識人を輩出した地でもある。 |
サトク・ボグラ・ハン・マザール アルトゥシュ | バザールの様子 アルトゥシュ |
| 歩道の真ん中に水路がある。日本人的感覚からすると水がにごっていて汚いのだが、現地の人によると、アルトゥシュの水は白くて綺麗だそうである。 | | 20世紀初頭、東トルキスタンにおいて近代的教育を行った教師の一人がメムタリである。アペンディは尊称。 |
町の様子 アルトゥシュ | メムタリ・アペンディ・マザール アルトゥシュ |
| 近代化に対応するべく、それまでのイスラム教の寺子屋的な初等教育施設から、宗教教育とともに読み書き、近代科学などを教えたるための施設が新方式(ジャディード)の学校である。新方式の教育のために尽力を払った人々がジャディードである。 | | 1885年にムーサー・バヨフ兄弟(フサインとバウドン)によって建てられた、東トルキスタンで最初の新方式学校。この学校では、近代教育のほか、文武両道を目指し、体育としてサッカーなども取り入れられたという。 |
ジャディード達の肖像画 アルトゥシュ | 最初の新方式学校 カシュガル・イキサク |
| フサインとバウドンのムーサー・バヨフ兄弟。彼らは大商人であったが、ウイグル人の近代化のために大きな働きを成した。トルコ人の教師を数人招聘し、50人以上のウイグル人青年をトルコとロシア(のクリミアのタタール人の地)に留学させた。 | | 週に一度開かれるバザールであり、店舗用に一段高い段がつくられている。 |
ムーサー・バヨフ兄弟の像 カシュガル・イキサク | 農村部のバザール カシュガル・ヤプチャ |
| イェンギサールはナイフの町として有名である。 | | ナイフを主としたさまざまな刃物が売られている。裏手には工房があり、見学も可。 |
ナイフ屋と看板 イェンギサール | ナイフ屋内部 イェンギサール |
| ウイグルの人々は岩石砂漠のことを「ゴビ」と呼ぶ。 | | 世界遺産にも選ばれた「12ムカム」の編者として有名なアマンニサハーンの墓廟。 |
岩石砂漠(ゴビ) イェンギサールとヤルカンドの間 | アマンニサハーン・マザール ヤルカンド |
| 16世紀にヤルカンド・ハン国の2代目ハンアブドゥラシードと、王妃アマンニサハンは、東トルキスタン各地から音楽家を集め、ヤルカンドの音楽を発展させた。アマンニサハンは美貌と才能とで、ハンに気に入られたという。 | | マザール内部の墓標はこのようになっている。遺体は墓標のずっと下、台座の最下部に安置されている。女性の墓標は男性のものよりも小さい。 |
アマンニサハーンの肖像画 ヤルカンド | アマンニサハーンの墓 ヤルカンド |
| こちらは砂砂漠で、世界で2番目に大きいタクラマカン砂漠である。写真で見るように向こう側は緑地となっており、砂漠化と戦っている最前線であるともいえる。 | | 新疆ウイグル自治区の歴史と、遺跡から出土した遺物や楼蘭の美女などのミイラが展示されている。原寸大の人形を使った、現代の「少数民族」の生活の再現の展示もある。 |
タクラマカン砂漠 ヤルカンド・カラス | 新疆ウイグル自治区博物館 ウルムチ |
| 水量が豊富な山麓から直接集落まで流すために掘った地下水路がカレーズである。これは数十mごとに竪穴を掘って、そこから横穴を延ばしてつなぎ、長いものでは数十kmにも達する。トルファン盆地内には1000本近いカレーズが掘られている。 | | 二つの川が交わる高台にある遺跡で、車師前国の都城「ヤルホト」があった。これに対して漢は高昌城を基点に屯田を拓いた。車師前国の滅亡後は、唐の時代に安西都護府が置かれ、更に西ウイグル王国の重要な都市であったが、チンギス・ハンの遠征により破壊され廃城となった。 |
カレーズ トルファン | 交河故城1 トルファン |
| この遺跡は土壁を築いたのではなく、台地を掘り込んだものであり、世界的にも珍しいといわれている。 | | トルファンのショッピングセンター前の広場に屋台村がある。料理はトヌル釜で焼いたヒツジと鳥の丸焼き。トヌル・カワプという。 |
交河故城2 トルファン | トルファンの屋台 トルファン |
| トルファンは狭い盆地であり、火州とも言われるほどに暑い所である。ホテルのカウンターには当日の気温が掲示されている。暑いときには50℃にも達するとのことである。 | | 漢代に屯田の基点として高昌壁、高昌塁という砦が築かれた。5世紀には蘭州出身の漢人による麹氏高昌国が成立し、それからおよそ1000年間、西ウイグル王国にかけて国都として繁栄したが、14世紀にチンギス・ハンの遠征によって破壊され遺棄された。 |
トルファンのホテル トルファン | 高昌故城1 トルファン |
| ここは1000年もの間トルファン地方の政治、経済、文化の中心であった。ほぼ正方形の遺跡で、南北1600m、東西1500mにも及ぶ。城址は外城、内城、宮城と3つの部分で構成されているが、建築物の破損が激しく、本当に廃墟という感じである。 | | 内部を見るにはこのロバ車に乗って往復する。高昌故城の入り口のそばには、バルマック・ホジャムという、指の異常を治すのに特化したマザールがあったらしい。現在でも治療に訪れる人がおり、そこのシャイフ(管理者)が祈りを執り成す。お金を目の前に並べてひざまずいて祈るという、珍しい光景がたまに見られる。 |
高昌故城2 トルファン | 高昌故城3 トルファン |
| コーランの中の逸話「眠り人」の伝説の地とされる場所に建てられたマザール。敵対する異教徒との戦いに敗れた王子とその部下が逃れ、ここの洞窟「アスハーブ・アル・カフフ」に隠れ、アッラーの加護によりずっと眠っているといわれている。ここは東トルキスタンでも有数の聖地であり、各地から信者が訪れる。 | | 洞窟内に入ることも可能である。洞窟内は数人が収まる程度の広さがある。洞窟で眠る聖人に尻を向けないように、這って出入りしなければならない。洞窟から出た後は、棒に付いた布で体全体を撫でられる(ただし異教徒は除外)。 |
トヨク溝ホジャム・マザール ピチャン | 聖人の洞窟 ピチャン |
| 東トルキスタンで3番目に大きい千仏堂である。現在公開されているのは3窟だけ。 | | 山肌が赤く、風化によってひだができているため、炎が燃えているように見えることから名がついた。西遊記にも登場する。 |
トヨク溝千仏堂 ピチャン | 火炎山 トルファン |
| 東トルキスタンのイスラーム建築を代表する、最古の塔として知られている。西暦1777年にトルファン郡王のスレイマンがその父エミン・ホージャのために建てたもの。蘇公塔とも呼ばれる。 | | もとは二道橋という、ウルムチの中ではウイグルの雰囲気が濃い場所として有名であった。しかし開発という名目で昔ながらのウイグル人の民家は取り壊され、伝統ある二道橋市場は建て直され、代わりに「国際大市場」が建てられた。 |
エミン塔(蘇公塔) トルファン | 新疆国際大バザール1 ウルムチ |
| 乾燥果物やナッツ類が並べられている。 | | 伝統的な模様の布を売っている。 |
新疆国際大バザール2 ウルムチ | 新疆国際大バザール3 ウルムチ |
| ウイグル医療は今でも民間療法として活躍しており、写真のようなものを生薬の材料として用いる。路上で脈をはかって体調を判別し、それに合った薬を調合して売っていた。 | | ウイグル人の伝統的な、且つ環境にも優しい石鹸。特にクチャのものが有名で、「やっぱりクチャの石鹸だよね」は、「美人に目移りしてもやっぱり奥さんが一番良いのだ」という意味のことわざになっているそうである。 |
ウイグル医療で使われる材料 ウルムチ | 石鹸 ウルムチ |
| ゆりかごに寝かせた赤ちゃんの股にはさみ、おしっこを外に出すために使われる。パイプではないので、口にくわえないように。 | | ウイグル人の民家におじゃましたときに受けたおもてなし。さまざまな果物や乾燥果物、ナッツ、ナンなどが並べられ、これをつまんでいると、メインディッシュが運ばれて来る。このときはポロを頂いた。 |
シュメッキ ウルムチ | もてなし カシュガル |
| ウイグルの伝統的、一般的な食事であるラグメンは、地域や季節によってバラエティがある。 | | 特にヤルカンドのラグメンが美味いと評判である。 |
ラグメン1 カシュガル | ラグメン2 ヤルカンド |
| 個人的にはこのラグメンが一番美味かった。ラグメンが西に伝わってパスタになり、東に伝わって麺、うどんになった、とウイグル人は言っている。 | | カワプとは羊の肉の串焼きのこと。クミンや唐辛子がふられていて、スパイシーで美味い。ナンと一緒に食べるのが一番。 |
ラグメン3 ウルムチ | カワプとナン ウルムチ |
| ウイグルの主食は主に小麦であるが、米料理としてはポロ(ピラフ)が有名。米を肉と大量の人参と一緒に炊いたもので、ご馳走としてお祝いの席などでは必ず並ぶ。 | | 羊肉のワンタンのスープ。体が温まる。 |
ポロ カシュガル | チョチュレ カシュガル |
| 卵を混ぜた黄色い細い麺をスープに入れたもの。ラーメンと似ているが、麺よりもスープがメインになっているので軽食といった感じ。 | | 羊の肺に小麦粉と香辛料を、腸に米と香辛料をつめて煮たもの。 |
ウグレ カシュガル | ウプケ・ヒスプ カシュガル |
| 薄く延ばした生地で肉と野菜を包んで焼き上げたもの。伝統的な料理の一つで、朝食やおやつとして食べられる。 | | 器に細かく砕いた氷とヨーグルト、水を入れたものがドグ。ナンをつけながら食べるのもなかなか良い。 |
サモサ カシュガル | ドグとナン アルトゥシュ |
| 麺を平べったくしてちぎってスープに入れ、一緒に煮る。ラグメンと似た味。 | | ウイグル料理レストランで出された料理。 |
スユクアッシュ ヤルカンド・カラス | さまざまなウイグル料理1 カシュガル |
| 料理の名前を全て聞いたのだが、対応が取れなくなったので詳細は省略。 | | |
さまざまなウイグル料理2 カシュガル | |