東トルキスタンに自由と平和を


民族工作の推移
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改革解放、エスノ・ナショナリズムの高まり

 弾圧と粛清の嵐であった文革が終り、ケ小平と共産党主席の胡耀邦の下で改革解放政策と、「民族工作」の復活が成された。民族政策は基本的には50年代の、大躍進・文革期以前に戻るものであった。
 文革期には実質禁止されていた宗教活動が復活し、さまざまな宗教組織がよみがえった。またイデオロギーの衰退と経済発展に伴う即物的な社会風潮の蔓延する一方で、それに対抗して精神的拠り所を宗教に求める人びとも増えた。  東トルキスタンにおいても同様にイスラム教の復興が起き、特に産児制限に対しては宗教的な理由から強い反発が生じている。また文革期に閉鎖されていたモスクや学校が復活すると、漢族学校に通う学生が激減し、政府に大きなショックを与えたようである。

 1984年には「民族区域自治法」が制定された。基本的には建国当初の1950年代の民族政策を踏襲するものであるが、これに資源開発の優先権などの配慮が加えられたものになった。しかしこのような枠組みは作られたものの、市場経済の発展によって、結局は中央政府と漢族とが資源開発を独占する状態に変化は生じなかった。

 1980年代後半から世界的にエスノ・ナショナリズムの高まりによる民族問題が表面化してきた。中国も同様であり、特にソ連の崩壊と中央アジア諸国の独立、モンゴルのナショナリズム高揚と民主化の動きなどが、中国国内の少数民族を刺激した。
 エスノ・ナショナリズムが国境を越えた拡がりを見せ、また少数民族への政策が人権問題として国際社会で認識されるようになったこともあり、東トルキスタン、内モンゴルなどの民族会議が中国国外で開かれるようになった。

 1992年にトルコのイスタンブールで第一回「東トルキスタン民族会議」が開かれ、このときに以下の宣言文が採択された。

(1)われわれの祖国は東トルキスタンである。
(2)国旗と国章について。
(3)中国の植民地主義政策、共産主義政策、「東トルキスタン中国の不可分の一部」という主張と同化政策を拒否する。
(4)独立によってのみ自由と幸福が得られる。
(5)内モンゴル・チベットと連携する。
(6)国際連合、人権組織、イスラム組織などが中国に圧力をかけるよう求める。



 2004年9月には、東トルキスタン共和国が侵略を受けたときの亡命者を主体とし、それに中国共産党に弾圧を受けた人を合わせて、東トルキスタン亡命政府がアメリカのワシントンで樹立された。11月には憲法を発効し、亡命政権としての正当性を主張している。中国によって圧迫を受けているチベットや台湾の独立に賛成を表明しているが、正式に外交関係にある国はない。

 また1980年代後半からは、民族紛争や衝突が毎年のように起きている。特にチベット、東トルキスタンで頻発するようになった。

 以下東トルキスタンで起きた事件についてのみ取り上げる。
 1990年4月にアクト県バリン郷で起きた農民の武装蜂起は、直接の原因はモスク建設をめぐるトラブルと産児制限への反発であったと言われる。人民解放軍はこの暴動を鎮圧するために空軍を使った空爆まで行ったと言われ、多くの犠牲者を出した。アムネスティ・インターナショナルによると、死者は50人、6000人が反革命罪で訴追されたという。
 95年7月にはホータンで、96年4月〜5月にはカシュガルとクチャで同様に、宗教的な理由が原因で衝突が起きている。
 97年2月5日にはイニン(グルジャ)で最大規模の衝突が起き、多くの犠牲者が出た。平和的なデモで始まったが、治安部隊によってその場で100人以上が殺された。続く数週間で数千人がデモに参加した容疑で拘束され、数百人が処刑されたとのことである。


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