東トルキスタンに自由と平和を


6.2つの東トルキスタン共和国
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 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていたが、実質は漢民族の軍閥によって支配されていた。
 清末期から続いていた東トルキスタンへの漢民族の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間に不満と怒りとが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていた。

 動乱はハミから始まった。新疆省主席である金樹仁の悪政が直接の原因である。ハミの回王の死去のどさくさにまぎれてその領土を取り上げ、それを漢人を優遇する仕方で勝手に分配したのである。
 1931年3月にハミで起きた蜂起は、バリクル、アクスまで飛び火した。このときに、ハミの回王の重臣であったホジャ・ニヤズが、甘粛省にいた東干(回族)の軍閥、馬仲英に救援要請を出した。このときから馬仲英は新疆の動乱に深く関わるようになった。このとき彼は首府ウルムチにまで迫ったが、退けられて甘粛省に撤退した。
 1933年4月、白系ロシア人のクーデターが起き、金樹仁は失脚し、盛世才が総司令・軍事委員長に任じられた。5月と翌年1月に再び馬仲英がウルムチ近くまで進行してくるが、いずれも盛世才によって撃退されている。
 このような混乱のさ中、1933年初めホータンで起きた蜂起が、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至った。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立された。この国は国名にイスラムがついていることからわかるように、ソ連カザン地方やオスマン・トルコでイスラム新方式教育を受け、汎イスラム主義、汎トルコ主義的な性格をもったイスラム知識人らによって主導されたものであった。しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧や旧ソ連の干渉、馬仲英の侵略によって1934年春に終焉を迎えた。(ちなみに馬仲英はこれ以降新疆政府に追われソ連に亡命し消息を絶つ。)

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