ウイグルによるテュルク化とイスラム化

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ウイグルの西走

2.ウイグルによるテュルク化とイスラム化 bookmark

 「トルキスタン」とは「テュルク人の土地」を意味するペルシャ語である。この地域をテュルク化し、イスラム化するのに大きい役割を担ったのはウイグル人である。

 744年モンゴル高原で、ウイグル族の首長キュル・ビルゲが東突厥を滅ぼし、カガン(可汗)を名乗った。ウイグル王国(遊牧ウイグル王国)の成立である。
 ウイグルとは唐代に「九姓鉄勒」と称された東突厥の一部族である。初期のウイグル王国は強大であり、唐が滅亡寸前まで追い込まれた安史の乱の鎮圧は、ウイグルの援軍なしには有り得ないほどであった。
 しかし840年、内乱の最中にキルギスの大挙によって王都を占領され、ウイグル族は四散することとなった。
 遊牧ウイグルの動静については漢文史料の他、19世紀に当時の王都で発見された「カラ・バルガスン碑文」によってもうかがうことができる。この碑文は8代可汗の功業を顕彰するために刻まれたもので、突厥文字、漢文、ソグド文字で記された。
 ソグド人の往来が盛んであったとみられ、彼らからの文化的な影響を大きく受け、遊牧民が伝統的に信奉していたシャーマニズムに代わって、外来宗教であり経典を持つマニ教を受け入れた。またカラ・バルガスンに代表される都城を建設し、その周囲で大規模な農耕を行い、上層部も定住化した。さらに中国北辺などへの略奪に頼らずに、唐との交易「絹馬貿易」によって利益をあげていたなど、それまでの遊牧国家にはない要素を持っていた。

 遊牧ウイグル王国の滅亡により四散したウイグル人は、大別すると南下組と西走組とに分れた。南下組は唐へ移住し、その支配下に入ることとなった。西走組は①河西回廊地帯、②東部天山山麓、③カルルク領地域に分れて定着した。
 それまでの遊牧国家は国家が滅びたときに西の草原地帯や中国領内に逃れる場合が多かったのだが、ウイグル人亡命者らは南下西走しオアシス地帯を選んで新たな国家をつくった。これは遊牧ウイグル国家がそれまでの遊牧国家と違い、すでに定住文明的生活に親しんでいたためであると考えられる。

①河西回廊地帯 : 河西ウイグル bookmark

 現在の甘粛省にあたる地域で、当時ここを支配していた漢族の政権(張氏)の内紛に乗じて、亡命ウイグル族が890年に甘州と粛州を占領し定住した。隣在した漢人の政権とは良好な関係を保った。1026年に西夏によって滅びる。井上靖の小説「敦煌」はこの時期が舞台である。

②東部天山山麓 : 天山ウイグル(西ウイグル、高昌ウイグル) bookmark

 唐代に安西都護府があったトルファン、クチャ一帯へ移住したウイグル人は、9世紀にはタリム盆地のオアシス諸都市を占拠し、遊牧から定着へと生活様式を転換した。
 天山ウイグルは、マニ教についで仏教・景教などを受容するようになり独自の文化を展開していった。11世紀に入ると東西から圧迫を受け、西遼によって主権を制限され、最終的には13世紀にモンゴルによって併合された。しかし王統は14世紀まで存続し、その高い識字能力はモンゴル帝国成立に貢献した。
 ソグド文字を借用したウイグル文字を作り出し使用していた。この文字はモンゴル文字、満州文字に受け継がれている。

③カルルク領地域 : カラハン朝 bookmark

 亡命ウイグルのうち最も西に移動した一部は、テュルク系のカルルク国の領域へ入った。カルルク国はアルタイ山脈の西、天山山脈の北、バルハシ湖の南の草原地帯に建てられた国であり、もともと遊牧ウイグル王国に従属した存在であった。
 840年にはカルルクの首長自ら可汗を名乗るようになり、カラハン朝が誕生した。この王朝を建てたのが亡命してきたウイグル人であると考えられている。(ただしカラハン朝の王朝の出自についてはまだ諸説がある。テュルク系であることは確実であるが。)
 サトゥク・ボグラ・ハンのときに、テュルク民族としては初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けた聖戦(ジハード)を展開していった。タリム盆地の西半部を支配し、天山ウイグル王国と共に、中央アジアをテュルク化していく主体となった。
 1041年に東西に分裂し、西カラハンはセルジューク朝、西遼の宗主下に入り1212年にホラズムによって滅ぼされた。東カラハン国も同様の経過をたどって、1211年にモンゴルによって滅ぼされた。

 このようにして中央アジアのパミール高原の東西両域は、テュルク人の住む土地トルキスタンとなった。またカラハン朝の支配地域であるタリム盆地西半部までが、イスラム化することとなった。


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