不当に拘禁されている留学生トフティ

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不当に拘禁されている留学生トフティ bookmark

 ウイグル人留学生トフティ・トゥニヤスは、博士論文の資料を収集するために1998年2月に一時帰国したところ、ウルムチ市国家安全庁により拘束された。2000年3月に「国家機密不法取得罪」と「国家分裂扇動罪」によって懲役11年、政治権利剥奪2年の刑が確定し、現在もウルムチ市第三監獄で服役中である。
 
 トフティは1959年に新疆ウイグル自治区カシュガルのバイ県で生まれ、82年に北京の中央民族学院歴史学科を卒業した。卒業後は全国人民代表大会民族委員会の法律審議室で勤務し、民族政策策定のために諸提案を行う職務に就いていた。中国各地の少数民族の歴史や文化の調査し、民族の声を中央に届ける役割も果たしていた。また東トルキスタン共和国の幹部であり、後に新疆を代表する中国共産党の大幹部となったセイプディン・エズィズィの秘書も勤め、彼から絶大な信頼を得ていた。
 当初は新疆ウイグル自治区の官僚になって故郷の発展のために尽くしたいと考えていたが、民族政策の研究のために日本へ行くことを決意し、1990年に立教大学の奨励客員研究員となった。その後、財団法人東洋文庫の研究員として1993年まで日本に滞在した。中国以上に充実している新疆ウイグル自治区の歴史資料に接し、それまで以上に歴史についての関心が高まった。日本や各国の資料を収集研究し、「ウイグル歴史文化研究」(民族出版社、1995)を中国で出版した。これはウイグル語ではなく漢語で書かれていたが、中国の大多数を占める漢族にウイグル民族について知って欲しかったためとのことである。これ以外にもウイグルの歴史と文化に関する多くの論文を書いている。
 3年の日本滞在後、中国の元の職場「民族委員会」に戻ったが、民族の発展のためには官僚や政治家になる以外の道もあると考え、日本で歴史の分野で博士号を取りたいと思うようになった。日本への留学を認めてもらうよう上司や幹部に相談したが認められず、1995年に職を辞め再来日し、東京大学の人文社会系博士課程に入学した。研究テーマは中国の民族政策史とウイグル民族史であった。日本で資料を集めるだけでなく、世界各国に出かけてそこの資料にも目を通し、相当量の資料を集めていた。
 しかし中国当局は彼の行動に不信を抱き、彼が一度帰国したときには父親から「ここの幹部が家に来て、お前のことをいろいろ言っていたが、お前は外で何をやっているんだ。」と尋ねられるまでになった。トフティは弁護士資格をもっており、自分が法律違反を起こしていないとの確信があったため「私は日本で勉強をしていますが、悪いことは一切していません。勉強することは罪ではありませんから心配しないでください。」と答えた。1998年2月に論文執筆のための資料を収集するために、「3週間以内に帰ってくるから。」と言い残して一時帰国した。
 このときにトフティは新疆ウイグル自治区ウルムチ市の国家安全庁に拘束され、4月に正式逮捕された。当時日本に滞在していた妻ラビアは連絡もないままに戻ってこないトフティを探しに一時帰国したが、このときに夫が拘束されていることを知った。彼らが留守にしていた北京の自宅は荒らされ、通帳やキャッシュカードを含めあらゆる所持品が没収されていた。2人の子供を抱えるラビアは生活費を返すよう頼んだが、公安は他の人から借りれば良いと突き放すのみであった。さらに彼らの日本での生活はどこから得ているか、資金はどこから来たか、普段はどんな人物と交際し連絡を取っていたかと執拗な質問を受けた。奨学金やアルバイトの収入があり、誰からも援助は受けず、どんな組織とも付き合いはないとラビアは答えたが担当官は納得せず、日本の架空の組織をでっちあげて日本のスパイであると決め付けられ、中級人民法院に起訴された。
 99年3月にウルムチ市中級人民法院裁判が行われたが、秘密裁判であるということで親族の傍聴は許されなかった。「国家分裂扇動罪」と「境外人員のために国家機密を不正取得した罪」により、懲役11年、政治権利剥奪2年の判決が出された。本人は直ちに新疆ウイグル自治区高級人民法院に上告したが、2000年2月に「国家分裂扇動罪」と「国家機密不法取得罪」とで判決が確定した。「境外人員のために国家機密を不正取得した罪」から「境外人員のために」が外されたのは、国外の組織とのつながりを立証できなかったためであると考えられるが、量刑自体に変化はなかった。
 
 「国家分裂扇動罪」はトフティが日本で「ウイグルの静かな暴動」という本を執筆し、出版する計画があったとして科されたものである。ウイグルの歴史と文化に関する書物の出版計画があったことは事実であるが、その計画は立ち消えとなっており具体化されていなかった。当局は北京のトフティの自宅から没収した1冊のノートが本の原稿であるとし、この内容が分裂を扇動するものであるとした。しかしこれは、実際には彼が民族委員会の職務にあった頃に書かれたものであって、上司への報告を目的に記録したものである。ノートがきちんと公開されていなかったため弁護士も内容について確認できず、また法廷においても内容が明らかにされていない。しかし、どのような内容であっても、全く公表されていない文章を根拠にした扇動罪は成立しないはずである。扇動罪によって懲役7年、政治権利剥奪2年が科せられた。
 「国家機密不正取得罪」は自治区公文書館の中国共産党支配以前のもの、1944年から49年の東トルキスタン共和国(三区革命)の歴史資料目録をコピーしたということだけで科せられた。この目録のコピーの際には文書間補助員の協力を得ており、買収や脅迫などは行われておらず、他人に提供した事実もない。中国の公文書は30年で公開するのが原則であるが、50年以上前の公文書、しかも文章そのものではなく目録であり、これが国家機密に該当することはあり得ない。トフティは国家機密不正取得罪により懲役5年が科せられた。
 これら2つの刑期を合算し酌量したものが懲役11年、政治権剥奪2年である。彼は今ウルムチ第三監獄で服役中である。
 トフティはウイグルの歴史と文化とを研究していたが、東トルキスタン独立運動を行った訳ではなく、むしろ漢族とその他の民族との連帯を模索していたと言われている。そのような彼にしても、調べすぎた、知りすぎたということで、不当に逮捕され有罪とされたのである。
 
 トフティの救援活動ははじめ東京大学を中心に進められ、中国要人や国連人権委員会への訴えや、教官らのウルムチ訪問などが行われてきた。また東京大学は学則を変更し、彼が復学するまで休学延長という措置をとっている。
 国連人権委員会の恣意的拘禁に関する作業部会では、東大教授らと中国政府とが真っ向から対立したが、東大教授側の主張が全面的に受け入れられた。トフティへの有罪判決は「国家機密」を拡大解釈したもので、思想や言論の自由に対する侵害であり、世界人権宣言や国際人権規約に違反しているとして、中国当局に対し善処するよう勧告が出された。
 また東京大学の教官らの働きかけによって国内外のペンクラブも動きはじめ、PEN American Centerは2002年のPEN/Barbara Goldsmith Freedom to Write Award 受賞者をトフティとした。更にオランダのペンクラブもPen-NOVIB Awardをトフティに授与した。アムネスティは2002年にトフティを良心の囚人として、早期の釈放を求めて救援活動を開始した。
 
日本に残されているラビアは2人の子供を抱えながら日本の企業で働き、後にウイグル料理屋を経営するが、ビザの更新の都合や心労のために店を畳まざるを得なくなった。また2005年の東トルキスタン独立記念行事では、トフティの身に起こったことを講演する予定であった。彼女もトフティと同じく、必ずしも東トルキスタンの独立を望んでいる訳ではなかったのだが、問題の解決のために日本の世論に訴えたいということで講演を希望していた。しかし、そのことを知った中国の当局がウイグル自治区に住んでいるラビアの家族の元を訪ね、講演を中止するよう圧力をかけたことにより断念せざるを得なくなった。
また彼女の収入では1年のビザ延長でさえ危ぶまれているような状態であったが、中国民族問題に以前より理解を示し支援してきた篤志の会社に就職することができ、3年のビザ延長を受けることができた。
2009年2月にトフティは刑期を終えて釈放されるはずである。しかし「重大犯罪人」とされた彼にはパスポートは発行されないであろう。釈放されたからといって、彼の問題が解決する訳ではない。

(参考文献)
中国民族問題研究会 ・ 中国民族問題研究(隔月誌)
東京大学 東洋史学研究科「トフティさんを救おう」
トフティさんの復学を求める会 ネットで署名を集めている
アムネスティ・インターナショナル日本(水戸83)


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