ウイグル民族について

地理に見るウイグル(東トルキスタン)

東トルキスタンは中央アジアに位置し、北京からは2400kmも離れています。 古来より砂漠の周縁部に点在するオアシスには都市が栄え、シルクロードの舞台として重要な位置を占めてきました。
シルクロードは3つに分れ、それぞれ天山北路、天山南路、西域南道と呼ばれています。 ここは東西の文化の交流の場であると同時に、独自の歴史と文化が育まれてきた場所なのです。

東トルキスタンはユーラシア大陸のほぼ中心部に位置し、世界で最も海から遠く離れた地域であり、周囲は高山に囲まれています。 北はカザフスタンとロシア、北東をモンゴル、西をキルギスとタジキスタン、西から南西にかけてアフガニスタンとパキスタン、南はチベットとインド、そして東は中国と接しています。


ウイグルの気候

東トルキスタン北部にはアルタイ山脈、中部には天山山脈、南西部には崑崙山脈があり、これらの山脈によって大きく2つの地域に分けられています。 天山山脈より南側はタリム盆地で、その中央部にはタクラマカン砂漠を擁します。

アルタイ山脈と天山山脈の間にあるジュンガル盆地は、比較的降水量が多く、緑豊かな草原地帯が形成されていますが、多くの地域では降雨量が少なく、昼と夜の温度差が非常に激しい、典型的な内陸性気候となっています。 春秋は短く、夏冬が長く、夏であっても場所によっては夜にセーターが必要なところもあります。 冬場は最低気温がマイナス20度にも下がります。
しかし、石油、天然ガスをはじめとした鉱物資源、農産物、畜産物に恵まれた天然資源の豊かな地域です。


ウイグル民族のルーツ

東トルキスタンは中国とは別の文化が育まれてきた、テュルク系諸民族が住むトルキスタンであり、イスラム教が信仰されてきました。
(現在執筆中です)


ウイグルの歴史

東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していました。 モンゴル高原に栄えた遊牧ウイグル帝国が840年に崩壊すると、逃亡してきたウイグル人が天山山脈北麓に天山ウイグル王国を建国し、同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興しました。
この結果、東トルキスタンの住民は次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教に改宗するとイスラム化が進みました。

16世紀から17世紀にかけてウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立しましたが、(現在の中国の少数民族分類ではモンゴル族とされる)オイラト族のジュンガルに滅ぼされてしまいます。
18世紀なかばにジュンガルが清により征服されると、その支配下に入り、イリ将軍統治下の回部として藩部の一部を構成することとなりました。 その土地は「ムスリムの土地」を意味する「回疆」もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」などと呼ばれて中国(清)の一部となりました。

その後19世紀にはいったんは清からの離脱を果たすのですが、左宗棠によって再征服され、1884年に中国内地並の省制が敷かれる事となり、新疆省が設置されました。
辛亥革命によって清が滅亡した際、藩部のうち民族政権が維持されていたチベットとモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言しましたが、漢人科挙官僚によって掌握されていた新疆省政府は、中華民国への合流を表明してしまいます。

1944年〜1946年には東トルキスタン共和国をはじめ、幾度かウイグル人主体の独立政権が試みられました。 しかし1949年の中国共産党による中華人民共和国成立に際して、統合されて中国の支配下に入れられてしまったのです(ウイグル人にとっては漢族による征服)。

1955年には新疆ウイグル自治区が設置されました。 しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府主導のもとで行われており、ウイグル人に主権は認められていないのが実状です。
Wikipediaより引用修正

Copyright  Uyghur Hotline