東トルキスタンに自由と平和を


1.歴代中国王朝の東トルキスタン支配
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 中国の王朝が本格的に東トルキスタンを支配できたのは清朝のときである。それ以前に支配できたのは、漢と唐代の一時期に、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみである。中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けたかのように喧伝しているが、これは事実と異なる。中国歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたのである。

 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域に最初に住み始めたのは、イラン系・インド系のアーリア人、ついでテュルク系、モンゴル系、チベット系などの遊牧民族であり、オアシスを拠点に都市国家が建てられた。紀元前176年頃、やはり遊牧民族である匈奴が、月氏・楼蘭・烏孫などの国を討って西域・河西地方の支配権を確立した。
 紀元前139年、漢の武帝は匈奴を牽制するために、張騫を大月氏のもとへと派遣した。同盟を結ぶという目的は果たされなかったものの、西域に豊かな土地があるという情報が中国に始めてもたらされたのである。そしてこの情報を元に紀元前121年、武帝は西域への侵攻をはじめた。
 こうしてタリム盆地周縁のオアシス諸都市は、匈奴から漢の勢力下に治められることになった。武帝は現在の甘粛省に河西四郡を置き、更に紀元前59年に西域統治機関として西域都護府を設置した。しかしその統治は安定せず、支配権をめぐって匈奴との一進一退を経、結局は匈奴による支配が続くことになった。

 後漢時代には「三通三絶」と史書に記されるように、中国と西域とは不安定な関係が続いていた。この頃のタリム盆地オアシス諸国家は、いくつかの強国が近隣の国を併せグループ化していった。前漢のときには西域36国といわれていたが、後漢のときには数国にまとまっていた。後漢の支配は、有名な武将である班超により、一時期カシュガルまで及び、紀元91年にはクチャに西域都護府が置かれた。しかし北匈奴の動きが活発化し、結局20年ほどでその支配は終わった。

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