東トルキスタンに自由と平和を


1.歴代中国王朝の東トルキスタン支配
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 漢による支配が終り、そしてじきに北匈奴も衰退していった。3世紀から6世紀は中国では魏晋南北朝時代と言われ、いくつもの諸勢力が分割統治した時代であるが、これは世界的に見ても民族の大移動と混乱の時期にもあたる。この時期のタリム盆地オアシス諸国家の中には、中国で成立した諸王朝と名目上の冊封体制を形成するものもあったが、実際には独立した存在であった。(この時代の中国の王朝が実際に西域に進出できたのは3度だけ、すべて数年以下のごく短期間であった。)また中国の仏教史上有名な鳩摩羅什(クマラジーヴァ)や法顕が旅行したのはこの時期である。

 5世紀初め、テュルク・モンゴル系の柔然がタリム盆地を支配した。柔然はモンゴル高原からイリ川流域まで及ぶ広大な領域を支配していたが、555年に突厥(テュルクの音写)に滅ぼされる。これ以降、突厥が中央アジアと北アジアに大勢力をふるうが、583年には東西に分裂することとなった。突厥は独自の文字を持つなど、文化的にも独自のものを開花させた。それまでの遊牧民族と大きく異なる所が、この独自の文字を持ったという点である。
 7世紀に西突厥が西域諸国を支配し、その領土を東はアルタイ山脈から西はササン朝ペルシャと接するまで拡大したが、その後内乱により衰退へと向かった。

 隋の時代に、タリム盆地南部の楼蘭付近を占領、郡を設置し再び中央とのつながりが作られた。唐の時代には640年トルファンに安西都護府を置き 、657年には西突厥を屈服させ、西域は再び中国の支配下に入った。

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