東トルキスタンに自由と平和を


2.ウイグルによるテュルク化とイスラム化
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@河西回廊地帯 : 河西ウイグル
 現在の甘粛省にあたる地域で、当時ここを支配していた漢族の政権(張氏)の内紛に乗じて、亡命ウイグル族が890年に甘州と粛州を占領し定住した。隣在した漢人の政権とは良好な関係を保った。1026年に西夏によって滅びる。井上靖の小説「敦煌」はこの時期が舞台である。

A東部天山山麓 : 天山ウイグル(西ウイグル、高昌ウイグル)
 唐代に安西都護府があったトルファン、クチャ一帯へ移住したウイグル人は、9世紀にはタリム盆地のオアシス諸都市を占拠し、遊牧から定着へと生活様式を転換した。
 天山ウイグルは、仏教・景教などを受容するようになり独自の文化を展開していった。11世紀に入ると東西から圧迫を受け、西遼によって主権を制限され、最終的には13世紀にモンゴルによって併合された。
 ソグド文字を借用したウイグル文字を作り出し使用していた。この文字はモンゴル文字、満州文字に受け継がれている。

Bカルルク領地域 : カラハン朝
 亡命ウイグルのうち最も西に移動した一部は、テュルク系のカルルク国の領域へ入った。カルルク国はアルタイ山脈の西、天山山脈の北、バルハシ湖の南の草原地帯に建てられた国であり、もともと遊牧ウイグル王国に従属した存在であった。
 840年にはカルルクの首長自ら可汗を名乗るようになり、カラハン朝が誕生した。この王朝を建てたのが亡命してきたウイグル人であると考えられている。(ただしカラハン朝の王朝の出自についてはまだ諸説がある。テュルク系であることは確実であるが。)
 この王朝はテュルク民族としては初めてイスラム教を受容し、東西へ向けて聖戦(ジハード)を展開していった。タリム盆地の西半部を支配し、天山ウイグル王国と共に、中央アジアをテュルク化していく主体となった。
 1041年に東西に分裂し、西カラハンはセルジューク朝、西遼の宗主下に入り1212年にホラズムによって滅ぼされた。東カラハン国も同様の経過をたどって、1211年にモンゴルによって滅ぼされた。

 このようにして中央アジアのパミール高原の東西両域は、テュルク人の住む土地トルキスタンとなった。またカラハン朝の支配地域であるタリム盆地西半部までが、イスラム化することとなった。

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