東トルキスタンに自由と平和を

■独立記念行事
 東京大会
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第二部
2.「中華民族」という幻想
評論家・三浦小太郎 氏

本来なら東トルキスタンの国歌を流したかったが、レコードなどの形になっていない。代わりに1992年にトルコで宣言された独立決議文を読み上げたい。

(1)母国は東トルキスタンである。
(2)国旗について。
(3)中国が主張する偽の歴史観を否定する。
(4)独立によってのみ自由が得られる。
(5)内モンゴル・チベットと連携する。
(6)人権・宗教の自由を願う全世界の人々に、この運動への協力を求める。
(以降講演時間の都合省略された)


まず、中華民族という概念についてだが、これは近代になってからできたものである。辛亥革命を成功させた孫文の「大漢族主義」が先駆けである。それを引き継いだ蒋介石の「中華大民族」というイデオロギーは、当時戦争をしていた日本への対抗のために打ち出されたものである。この中華大民族とは、いろいろな民族が不断に連携して共通の民族として「中華民族」の歴史を形成してきた、という考えである。清も中華民族の国家であり、その継承国家である中国は、清の版図をそのまま継承すると主張している。実際に清から独立できた国は外モンゴルのみである。
1930年代のこの地域は、ほぼ独立に近い軍閥の盛世才政権が支配し、親ソ連、親中国共産党を政策としていた。しかし独ソ開戦以降のドイツの進撃を見て、1942年には一気に国民党寄りの政策をとるようになった。以降、東トルキスタンは数十万の国民党軍が駐在することになり、これに対しての民衆反乱「三区革命」が起こった。これは武装闘争を伴う独立運動であり、雪崩を打って軍閥政権は崩壊することとなった。実際にはこの民衆反乱にはソ連からの支援があったようである。
1944年11月12日東トルキスタン共和国が成立する。東トルキスタンの民衆とソ連軍、国民党による三者の協力によって独立が達成された。民衆は大別して、宗教と伝統を重んじるイスラム派と、左派的な近代化派とに分けられる。ソ連や国民党から見たときにイスラム派は厄介な相手であることから、近代化派を主として共和国政権が設立されることとなった。
第二次世界大戦の終わりに際して開かれたヤルタ会談で、ソ連と国民党との間で密約が交わされた。ソ連によって迫られた外モンゴルの独立を認める代わりに、東トルキスタンは中国の領土であると主張し、これが中ソ友好同盟条約として締結され、確定されてしまった。
結局、大国間に翻弄される形で、1年少々で東トルキスタン共和国はなくなり、中国の新疆政権に合流されてしまったのである。1949年8月、国共内戦を制した中国共産党は、東トルキスタンの統治について話し合うとの名目で、東トルキスタン共和国政府要人を北京に呼びだした。しかし彼らが乗った飛行機はバイカル湖上空で爆発・乗組員全員死亡したとされ、ここに東トルキスタン共和国は名実共に消滅することとなった。

現在の中国政府のイデオロギーは費孝通の言った以下の3点で整理される。

(1)華民族とは諸民族の融合である。
(2)民族の多元一体化。
(3)全ての民族は中華民族として共存する。


つまり諸民族の自治までは認めるものの、自決は認めないということである。
これに対して現在の中国国内の民主派の主流は、諸民族の融合によってではないということと、諸民族を苦しめてきた事実をまずは認めることから、今後の中国のあり方を考えていくことを確認している。
共産主義による文化の破壊は、文化大革命として行われてきた。しかし現在でも改革解放政策によってもたらされる拝金主義によって、少数民族の文化は破壊され続けている。大きな暴動も数度おきているが、当局によってテロというレッテルを貼られて処理されている。
我々が対中国の戦略を練るには、このように中国国内の民主派の人々との連携も重要になっている。特に自由主義経済が民主主義の下でのみ可能であることを確認しておかなければならない。またオリンピックの基本思想である「諸民族の尊重」が全くされていない国が開催国となることへの懸念の表明もしていかなければならない。現在日本政府は中国との経済関係のみを重視しているが、これは中国国内の良心的民主派を(本当の意味での)反日家としてしまうであろう。
また東トルキスタン亡命政府に関しても、もし彼らに問題や誤りがあったときには、本当の友達として忠告していかなければならない。誤りや誇張を用いるやり方は、彼らを支援する人が恥をかく事になるとと認識してもらわなければならない。

最後にコーランから2節引用させていただく。
・どちらの海からも真珠とサンゴが採れる
・生きとし生けるもの凡てアラーにひれ伏す。日によって影が移り行くように。

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