歴代中国王朝の東トルキスタン支配
東トルキスタンの歴史 |
1.歴代中国王朝の東トルキスタン支配 |
2.ウイグルによるテュルク化とイスラム化 |
3.モンゴル帝国からヤルカンド汗国まで |
4.ジュンガル帝国と清による侵略 |
5.ムスリムの大反乱とカシュガル汗国 |
6.2つの東トルキスタン共和国 |
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1.歴代中国王朝の東トルキスタン支配 bookmark
中国の王朝が本格的に東トルキスタンを支配できたのは清朝のときである。それ以前に支配できたのは、漢と唐代の一時期に、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみである。中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けたかのように喧伝しているが、これは事実と異なる。中国歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたのである。
現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域に最初に住み始めたのは、イラン系・インド系のアーリア人、ついでテュルク系、モンゴル系、チベット系などの遊牧民族であり、オアシスを拠点に都市国家が建てられた。紀元前176年頃、やはり遊牧民族である匈奴が、月氏・楼蘭・烏孫などの国を討って西域・河西地方の支配権を確立した。
紀元前139年、漢の武帝は匈奴を牽制するために、張騫を大月氏のもとへと派遣した。同盟を結ぶという目的は果たされなかったものの、西域に豊かな土地があるという情報が中国に始めてもたらされたのである。そしてこの情報を元に紀元前121年、武帝は西域への侵攻をはじめた。
こうしてタリム盆地周縁のオアシス諸都市は、匈奴から漢の勢力下に治められることになった。武帝は現在の甘粛省に河西四郡を置き、更に紀元前59年に西域統治機関として西域都護府を設置した。しかしその統治は安定せず、支配権をめぐって匈奴との一進一退を経、結局は匈奴による支配が続くことになった。
後漢時代には「三通三絶」と史書に記されるように、中国と西域とは不安定な関係が続いていた。この頃のタリム盆地オアシス諸国家は、いくつかの強国が近隣の国を併せグループ化していった。前漢のときには西域36国といわれていたが、後漢のときには数国にまとまっていた。後漢の支配は、有名な武将である班超により、一時期カシュガルまで及び、紀元91年にはクチャに西域都護府が置かれた。しかし北匈奴の動きが活発化し、結局20年ほどでその支配は終わった。
漢による支配が終り、そしてじきに北匈奴も衰退していった。3世紀から6世紀は中国では魏晋南北朝時代と言われ、いくつもの諸勢力が分割統治した時代であるが、これは世界的に見ても民族の大移動と混乱の時期にもあたる。この時期のタリム盆地オアシス諸国家の中には、中国で成立した諸王朝と名目上の冊封体制を形成するものもあったが、実際には独立した存在であった。(この時代の中国の王朝が実際に西域に進出できたのは3度だけ、すべて数年以下のごく短期間であった。)また中国の仏教史上有名な鳩摩羅什(クマラジーヴァ)や法顕が旅行したのはこの時期である。
5世紀初め、テュルク・モンゴル系の柔然がタリム盆地を支配した。柔然はモンゴル高原からイリ川流域まで及ぶ広大な領域を支配していたが、555年に突厥(テュルクの音写)に滅ぼされる。これ以降、突厥が中央アジアと北アジアに大勢力をふるうが、583年には東西に分裂することとなった。突厥は独自の文字を持つなど、文化的にも独自のものを開花させた。それまでの遊牧民族と大きく異なる所が、この独自の文字を持ったという点である。
7世紀に西突厥が西域諸国を支配し、その領土を東はアルタイ山脈から西はササン朝ペルシャと接するまで拡大したが、その後内乱により衰退へと向かった。
隋の時代に、タリム盆地南部の楼蘭付近を占領、郡を設置し再び中央とのつながりが作られた。唐の時代には640年トルファンに安西都護府を置き 、657年には西突厥を屈服させ、西域は再び中国の支配下に入った。