東トルキスタンに自由と平和を


5.ムスリムの大反乱とカシュガル・ハン国
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 なお1840年頃から中央アジアは、英露両国の勢力争いの場となっていた。また両国をはじめとしたヨーロッパ諸国や、日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされた。
 日本の探険隊は、西本願寺の法子が先導した大谷探険隊で、仏教伝播の足跡をたどる目的で行なわれたが、軍事目的のスパイという疑いを英露両国に抱かせもした。

 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれた。1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立した。このときに外モンゴルは独立しソ連の衛星国になり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となった。
 しかしこのような混乱の時期にあっても、東トルキスタンは内乱らしい内乱もないままに過ぎた。これは当時の新疆省主席であった楊増新の巧妙な外交・統治の手腕によるといわれている。
 しかし彼が1928年に暗殺され、その後を引き継いだ金樹仁の悪政と弾圧によって、ついには東トルキスタンにも火の手が上がる。

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