ムスリムの大反乱とカシュガル汗国

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カシュガル・ハン国

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 ヤルカンド・ハン国の滅亡の際に、白山党ホジャの一族のうち一人だけが、西トルキスタンにあるコーカンド・ハン国に逃げることができたといわれる。彼の子孫と、これを推す勢力とによって、失地回復のための聖戦が1826年から1857年にかけて度々起きた。これらの聖戦には、コーカンド・ハン国による後援があったといわれる。
 また清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発していた。1855年の雲南省における反乱(パンゼーの乱)などが有名である。そして1862年からの陝西・甘粛両省での大反乱は、東トルキスタンのイスラム教徒にも大いに刺激を与えた。なおこれらの反乱以前から、イスラム教徒と漢族の間のトラブルはたびたびあったが、この反乱の時期には漢族によるイスラム教徒の大虐殺「洗回」が各地で頻発した。
 初めにクチャで東干(漢人のイスラム教徒)が黒山党ホジャをたてて蜂起し、これに呼応してウルムチ、ヤルカンドなど各地にイスラム教徒の政権が樹立され、清の勢力は一掃された。
 1865年、コーカンド・ハン国の将ヤクブ・ベクが白山党ホジャを擁してカシュガルを攻めた。ヤクブ・ベクは各地の東干と提携して1872年までにイリを除くほぼ全域を収め、ハンを名乗り、カシュガル・ハン国を建てた。(イリは、この時期の混乱に乗じたロシアによって占領されていた。)
 このようにして東トルキスタンは再びテュルク人によるイスラム政権を樹立することができたのである。対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも広く認められていた。
 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠の進入によって滅び、東トルキスタンは再び清の支配するところとなった。さらにロシアからイリが返還された後、1884年に新疆省となり、清によって直接統治されることとなった。内地と同様の道州府県が置かれ、本土並みの行政が行われるようになったのである。

 なお1840年頃から中央アジアは、英露両国の勢力争いの場となっていた。また両国をはじめとしたヨーロッパ諸国や、日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされた。
 日本の探険隊は、西本願寺の法子が先導した大谷探険隊で、仏教伝播の足跡をたどる目的で行なわれたが、軍事目的のスパイという疑いを英露両国に抱かせた。

 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれた。1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立した。このときに外モンゴルは独立しソ連の衛星国になり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となった。
 しかしこのような混乱の時期にあっても、東トルキスタンでは内乱らしい内乱もないままに過ぎた。これは当時の新疆省主席であった楊増新の巧妙な外交・統治の手腕によるといわれている。
 しかし彼が1928年に暗殺され、その後を引き継いだ金樹仁の悪政と弾圧によって、ついには東トルキスタンにも火の手が上がる。


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