2つの東トルキスタン共和国
東トルキスタンの歴史 |
1.歴代中国王朝の東トルキスタン支配 |
2.ウイグルによるテュルク化とイスラム化 |
3.モンゴル帝国からヤルカンド汗国まで |
4.ジュンガル帝国と清による侵略 |
5.ムスリムの大反乱とカシュガル汗国 |
6.2つの東トルキスタン共和国 |
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中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていたが、実質は漢民族の軍閥によって支配されていた。
清末期から続いていた東トルキスタンへの漢民族の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間に不満と怒りとが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていた。
動乱はハミから始まった。新疆省主席である金樹仁の悪政が直接の原因である。ハミの回王の死去のどさくさにまぎれてその領土を取り上げ、それを漢人を優遇する仕方で勝手に分配したのである。
1931年3月にハミで起きた蜂起は、バリクル、アクスまで飛び火した。このときに、ハミの回王の重臣であったホジャ・ニヤズが、甘粛省にいた東干(回族)の軍閥、馬仲英に救援要請を出した。このときから馬仲英は新疆の動乱に深く関わるようになった。このとき彼は首府ウルムチにまで迫ったが、退けられて甘粛省に撤退した。
1933年4月、白系ロシア人のクーデターが起き、金樹仁は失脚し、盛世才が総司令・軍事委員長に任じられた。5月と翌年1月に再び馬仲英がウルムチ近くまで進行してくるが、いずれも盛世才によって撃退されている。
このような混乱のさ中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至った。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立された。この国は国名にイスラムがついていることからわかるように、ソ連カザン地方やオスマン・トルコでイスラム新方式教育を受け、汎イスラム主義、汎トルコ主義的な性格をもったイスラム知識人らによって主導されたものであった。しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧や旧ソ連の干渉、馬仲英の侵略によって1934年春に終焉を迎えた。(ちなみに馬仲英はこれ以降新疆政府に追われソ連に亡命し消息を絶つ。)
これら1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わったが、この頃の新疆情勢について日本政府は強い関心を持ち注視していた。国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対して日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていた。指導者の中には東京まで亡命してきた者もいた。彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようであるが、日本政府が新疆に対しての関心を失ってしまったため実現しなかった。
新疆省政府の親ソ連化は金樹仁のときから進んでいたが、これは中央政府からの援助が見込めないことから仕方なく起こったことであった。当初、盛世才も親ソ連であったが、1941年の独ソ開戦により反ソ・反共に向かい、国民党の傘下に入ることとなった。しかし盛世才の民族弾圧の激化によって、ウイグル人とカザフ人の幹部はソ連へと脱出し、そこで軍事訓練を受けた。彼らが後の独立運動で大きな働きをすることとなった。
1944年8月、盛世才はクーデターを起こしたが、これが蒋介石の怒りを買い、新疆省政府の主席から更迭されることになった。
ソ連の影響力が失せ、省主席が左遷されたこの混乱時に、テュルク系民族らによる「民族解放組織」がイリ地区ニリカを占拠し、11月12日にはイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言した。主席はエリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていた。ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握した(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫ったが、突然進軍を停止した。これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と国民党との密約で、外蒙古の独立、満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためである。
武力による独立闘争に代わり、中国政府と東トルキスタン政府の和平交渉が始まった。東トルキスタン政府は、当初は完全な独立を主張していたが、1945年秋には高度な自治の獲得へとその目標が後退し、さらにソ連の仲介によって、1946年1月ウルムチの国民党政府と和平協定を締結する至った。6月にはお互いの閣僚を出し合って新疆省連合政府が成立し、東トルキスタン共和国は解消されることになった。しかしこの連合政府もまもなく分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り、「保衛新疆和平民主同盟」を組織し、自治を宣言した。
1949年国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定した。8月に北京で開催される会議に参加するため、政治的指導者達は出発したが、その途上ソ連に連れ去られ殺害された。しかし近年まで彼らの死は、飛行機事故によるものとされていた。
政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」された。そして1955年、新疆省は新疆ウイグル自治区となり、現在に至っている。